[282]言霊the miraculous power of language(有り難い人生)

投稿日時:2017年07月28日  タグ:なし
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2017年(平成29年)7月17日monday.27:20.
山口市大内御堀 水道局隣(仁保川沿い) 末永写真舘 山口新館 1階正面玄関前エントランスより
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こんばんは~🌙
今日は、私と同じ美祢市出身で、私の三男と同じ年頃で、この2月から私が管理している駐車場の隣で英語塾を開設されたRi.Ue..という女性の先生とその駐車場の草刈り中に出会い、
会話をしているうちに、即 新たにFBFの一員になって下さるという新たな出会いがありました。 通訳や翻訳、スペイン語も話せるとのことでした。
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日本人男性の平均寿命に照らし合わせるとFBFとの交流もあと約10年程度ですが、皆様どうぞ宜しくお願い致します。
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ブダペストinハンガリーでの水泳の世界選手権を未明までテレビで見入ってしまい、こんな時間になってしまいました。
女子4×200mリレーでアメリカ、中国、オーストラリア、ロシアに継ぐ5位、何十年間更新されなかった日本記録を更新する瞬間を見ました。
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私の子供の頃は、山中毅、田中聡子選手でした。戦前は、フジヤマのトビウオ&前畑ガンバレ。近年は北島康介選手が目を引きました。
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私は、小学校4~5年頃に学校にプールが出来るという時代に過ごしました。 それまでは、指定された川で泳ぐ時代でした。
中学校では、まだプールがありませんでしたが、何故か、市内競泳大会に女子は3年生の嶋田さん、男子は1年生の末永君が本校を代表して参加しますっと全校朝礼で壇上の阿座上 新 校長先生が挨拶の中で発表されました。
その時、初めて自分が出場することを知りました。 小学校時代の記録が中学校迄伝わっていた様でした。
競技会場は、美祢市豊田前町という美祢市最大の人口を有して日露戦争以来の無煙炭の炭鉱を有する宇部興産系の山陽無煙鉱業所内にあるプールでした。
後で分かったことですが、当時の豊田前中学校の3年生に米井要というのちにオリンピック候補に選ばれてアメリカ遠征に参加するほどの人物がいました。
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私は、山口県美祢市立伊佐中学校時代は柔道部のキャプテンを務めさせて頂いていましたが、 山口県立大嶺高等学校1年生の時に国体出場を目指して練習中に膝の筋を切断して半年間石膏で固めて松葉杖での歩行でした。
石膏を外してから、柔道部の先輩諸氏からマネージャーとして部に残って欲しいと頼まれましたが、柔道が出来ない体になったからには躊躇なく退部させて頂くことにしました。
今振り返ると、即決の性格だったようです。自分の感性に従った人生を歩む人間だったようです。
かといって、高校2年生の頃だったか、体育の授業の終わる1~2分前だったか、柔道場の両サイドにそれぞれ身長順に2列に整列終了後、突然、木村4段の先生が「末永、道場の真ん中へ。」っと言われて進み出たことがありました。
すると、木村先生が言われた言葉は、「両サイドの身長の高い順に交互に末永へかかっていくように」っと言われました。
どよめきとともに、2~3クラス分の大男から順番に両サイドからかかってきました。
相手は素人なので、と言っても中には柔道部員も居ましたが、柔道着を持った瞬間に投げ飛ばすので、徐々にスピードアップしてきて、振り向くとすぐそばにもう攻めてこられるという体勢でした。
同級生の男子全員を投げ飛ばしたと同時に授業終了のチャイムがなっておーっと歓声が上がったことがありました。
今、この歳になって思うことは、今は亡き木村先生のご配慮の言葉に感謝することです。
また、私が同高等学校2年生の時のクラスマッチの団体戦で、3年生と対戦することがありました。
なぜか、柔道場の周辺の窓や中庭や廊下にまで見学や応援の学生で一杯になっていました。
私の対戦相手は、3年生のメンツをかけた大男で屈強で名を馳せたHoko…さんでした。
木村先生の「始め」の声とともにお互いの柔道着の襟を持った瞬間、彼は自護体(自然体の反対)姿勢になりました。
おーっと場内に歓声が湧きました。腕の筋力や握力や背筋力などが全然違うことが0.1秒も経過しない内に分かるものです。
試合時間は2秒も掛からなかったと思います。その瞬間、全校に私の噂が本物だということが実証されたように浸透していったことが、何と何十年も経過して知ることになりました。
また私が高校1年生の時、次のようなことがありました。
徳山市での県大会へ向かう列車の中で立っている私に向かって、加藤先輩が私の荷物を持とうといってくださいました。私は当然いいですよ自分の荷物は自分で持ちますっとお断わりしました。ところが先輩は何とこう言ったのです「末永君は、選手だから」。
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高校2年の夏に水泳部の門を叩きました。バタ足なら、膝のリハビリになるように思ったからでした。 大学進学のために2年生で水泳部を退部する私の母方(教育家)の従兄弟の小方隆良君に連れられて入部したので、彼は私と入れ替わりになってしまいました。
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しかし、中学校の時にプールがないので、1度だったか中学校の市体出場のためだったか、高校のプールを訪ねて泳がせて頂いたことがありました。
その時に私の泳ぎを見て頂いた水泳&水球部の顧問の安永先生がまだ在籍しておられて私の泳ぎのことを覚えておられました。
それなのに、私は水泳&水球部に入部しなかったのは、木村4段の先生の元で柔道を極めたかったからでした。
当時の柔道は、今のような体重別ではなく小さい人でも大男を投げ飛ばす醍醐味がある種目でした。
しかし、その分、怪我が多く中学校3年生の秋、日本海側の長門市での長北(武道)大会の試合中に右手首を脱臼して試合会場の近くの岡田病院で間接を正常位置戻して石膏でその手首を固められ美祢市の個人病院へ紹介される電話の声が聴こえ、 首から提げた三角筋で右手をぶらさげて、左手で高校受験の課外授業を受けたりしました。
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当時の保体&技術家庭の勝谷先生(私の2年生の時の担任)からのアドバイスの言葉がなかったら私の右手首は、動かなくなっていたことがありました。
その時の私にとっての言霊は、「末永。『未だ』石膏をしたままなのか。手首には、軟骨ちゅうものがあってそれが固まったら手首が動かなくなるぞ」でした。
当時は、第二オピニオンなる言葉はない社会でした。主治医に従うのみの時代でした。 同窓会で、何度かこのことを恩師へお話しさせていただくとともにその御礼を述べさせていただきましたが、言ってくださった当の本人はさして気に留めていたようでもなく、自然に先生の人柄から発せられたもののようでした。
後年、【言葉というものは】、考えて伝えるものよりは、感性で伝えるものの方がより重要なことがあるように思うようになりました。
勝谷先生からの、そのことをその日の晩に父が帰宅後話したところ、翌日台風の中、水があふれて道路と川の境目が判別しにくい道(現在の国道316号線)を、父の運転する車で瀬戸内海側の小野田市(現在の山陽小野田市)にある小野田労災病院へ向かいました。
その時の外科部長さんは、即その場で私の手首の石膏を割ってお湯に浸けて指と手首を動かす練習を指導してくださいました。 それがあったからこそ、私の現在があります。
思えば、私の2歳下の弟が小学校時代に、グランドの鉄棒から落下して肘を複雑骨折したことがありました。当時の発見や、処置の仕方などが悪く、山口市の日赤病院まで父は自家用車で弟を連れて行ったことがありました。
そのことの、後遺症のことが当時の父の脳裏を掠めたように思うと、今度は弟同様に、長男の私もその二の舞になるのではないかっと苦悩しただろう、その心中が察せられます。
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さらに遡れば、私が小学校2年生の頃、伊佐川の河原にいた私に向かって私の名前が呼ばれたので振り向くと斜め向こうの橋の上から友達が投げた石が私の眉間に命中したことがありました。
この時も、小雨が降り出して全身血まみれになって帰宅の途中までは意識がありましたが、気を失ってしまったことがありました。
床の間で、療養している私のところへ私の母がやってきて、「この巻き寿司は00君のお母さんが、輝清が早く良くなって欲しいと心を込めて作られた物だから心して食べておくれ。」そして私の母が部屋から出る際に振り返って私の目を見据えて「決して00君を恨んじゃいけんよ」、っと言われました。
このことは、ずっと、自分だけの胸に秘めて暮らしてきましたが、昨年あたりから、自分史を書く上で避けられない出来事として少しずつ記述するようにしました。
私は現在68歳ですが、私にとっては、この時の母の言葉ほど心に残った言葉に出会ったことは未だかつてありません。
その当時は、なんとも思わなくてそうなんだっ程度でした。
しかし、どんどん歳を重ねていくに従って、その【言葉の重み】を増してきました。
このような母親がこの世にというか、かつて人類の歴史に自分(母親として)の幼い第一子(私のこと)に対して言える人を、知りません。
たとえドラマであっても聞いたことがありません。
それほどの人間が私の母親であったことに感謝しています。
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また、陸上部は無い時代でしたから、市陸上大会の当日に古いスパイクを1年間体育倉庫に保管されていたその段ボール箱をグランドでひっくり返して、佐藤先生から自分の足に合う物を履くように言われるといった大変な大胆な時代でしたし、また数知れない挫折感も味わいました。
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さらに、柔道で国体出場は叶わなかったのですが、なんと、水球でインターハイ&国体と各2度ずつ出場している自分がいました。
その大分国体の水球の試合後、その会場で明治大学より進学を勧められるという栄誉もありましたが、「私は長男で、家業を継がなければならないので明治大学には進学出来ません」っと即座に返事をしたこともあったりしました。
もし、その明治大学へ進学していれば、当時 営業写真を教える唯一の学校である日本写真専門学校 写真美術学部 営業写真学科へ進学していなかったでしょうし、その当時の古賀先生や北村君、黒田さん、原田君、大島君、小西君、倉光君、小林君などの同級生(今ではとても君ずけで呼べる人ではないくらいに立派になられていますが、男性と女性の区別のためにあえてそう記載させていただきました)に出会うことはなく、ましてや、卒業を間近に控えた頃に大阪時代唯一無二のデートをしたkei..yosi..さんに出会うこともなかったでしょう。
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山口県美祢市の片田舎からの大都会大阪の環境はカルチャーショックが大きく、とても田舎へ帰る気持ちが維持出来ないと判断して、何度か帰郷して父に退学したい旨を頼んだことがありました。
当時の父は、「卒業だけはしてくれ 」の一言でした。
私は、その卒業までの【心の葛藤】こそが、現在の私の人生の大きなターニングポイントであったと思っています。
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例えば、恋愛にしても、税金でその生活を保障されている歌舞伎界でさえも、結婚しないで子供を出産させたりしていることを思えば、 当時の若き自分は良くアイデンティティを確立出来たものだと今更ながら驚くと共に、生涯の心のパートナーを得た気持ちがしています。
大組織には無い、何の後ろ盾や保障も無い小さな個人商店を継ぐ為の些細な魂にも、地球よりも遥かに大きな愛を育くむ必要に迫られていました。
私が帰郷して、働きながら夜間の大学へ通学する際の夏休みに、山陽町厚狭の自動車学校へ通ったことがありました。
その頃の、私の父の口癖は、「【写真技術よりも、人間形成】」でした。
父が終戦後復員して、写真館の出張撮影には単車(オートバイ)でした。当時の日本にはまだ自動車は普及していませんでした。道路も砂利道で舗装されていませんでした。そんな終戦間もない時代に私は育てられました。
私の母が、下関の病院へ入院していた際、仕事の途中その見舞い後の深夜に美祢市伊佐町に帰宅途中に対向車を避ける際に路肩の砂利にオートバイのタイヤを救われて美祢市との堺の下関市吉田町の谷底へ転落して足首の骨(4本て聞いた記憶が有る)全部骨折して長い間仕事ができなかったことがあったようです。
長門市俵山温泉でリバビリしたりして苦労したようで、私には2輪車は厳禁でした。
4輪車だけ許可されました。
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今思えば、もう一度あのスポーツに没頭した青春時代に戻りたいかと、問われても、私はもう戻ららなくてもいいと思っています。
一度きりの人生、私はこのまま生涯を終えても今のところ、悔いはないというか、人生を もう一度やりかえたいとは思えない気持ちで一杯です。
来月の8月に90歳を迎える私の母よりは何としても長生きをしたいと念じているところです。
スポーツは、私にそのような人生精神を授けてくださり、 そして、私を期待して待ち焦がれてこの世に産んで下さった(くれた)私の両親やそれぞれの御先祖様に感謝すると共に、 私にそのような人生精神を下さった運命のレールようなものとその言霊に有り難く思っています。
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三代目館主 末永輝清68歳
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