[175]七夕に出会った女(ひと)

投稿日時:2017年07月08日  タグ:なし
(FBコメント欄より移行編集)末永 輝清→ 降ったり止んだりです。
3日前だったか、午後9時過ぎに 我が家から約1400m離れたJR山口駅付近に落雷があり、一瞬停電気味に暗くなりかけたりしました。
山口県内情報交換グループのようなFBに、詳しく状況を説明された方がおられて その方に質問したりしました。
その時に、私のコメントに対して丁寧に説明をして下さった方がおられました。過去にも1~2人FB会話をしたにもかかわらず そのままFBFにもならずに心残りなことがありました。
今日、 母の病床に見舞いに訪ねた際にその落雷の話を母に話していた際、思い出して思い切ってFBF申請して、間も無く了解返事でFBFになって頂きました。
私は、山口県内のFBFは4~5人です。
こちらではあまりFBが普及していないようですから、有難い七夕🎋日になりました。
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それが切っ掛けかどうかは定かではありませんが、何故か、病院内でも看護師さんや介護士さんや理学療養士さんたちの親切と笑顔の会話が弾みました。
また、その病院の下りのエレベーターで同じ階から私と同様のお見舞いに来られた方と一緒になった方の92歳のお母さんが、明日退院との御目出度い話を聞きました。
つまり、この病院は自然死を待つだけではなくて、例え補助器具を使用してでも入院患者が自力で歩いて退院する方がおられる事実が確認できただけでも、今の私にとっては元気百倍に値する吉報でした。
もうその方とは一期一会なすれ違いですが、暫く雨の駐車場を前にしてお互いの母親に対する晩年の在り方について話をすることが出来て何だか分かり合える気持ちが湧いてきて、新たな勇気が湧いてきた瞬間で有り難かった七夕🎋日でした。
その方の実のお母さんは、心臓を患ってN総合病院へ3日緊急入院されて、S総合病院へ転院して3ヶ月後にここへ転院されて92歳と私の母より年配なのに明日退院との事で、自力歩行で退院出来る病院という事実を知って有難い七夕日でした。
実は、母の見舞いでも、意外と神経を使うので帰宅するとどっと疲れが出てしまいます。
9年前だったか、同居する決断の時点で自分の残りの人生の大半を母に捧げる覚悟を決めました。例え今のように入院していても1日の大半を母に関することで神経やあらゆる労力を費やします。
親が早めに亡くなって、子孝行という言葉を耳にする事もあります。
ところで、私は幼い頃から出来るだけ父の言葉は遺言のごとく聞くように努める習性があったように思えます。
父が若き独身時代、国から一方的に召集されてフィリッピンのマニラ港へ向かう11隻の輸送船に乗船しました。
しかし、その道中に 米軍の潜水艦から発射される魚雷の餌食になって海の藻屑と散っていきました。
今は、その慰霊に関する畏敬の念は風化する社会になってしまいました。
私は、父のすぐ下の次男 登さんの墓参りをするたびに思う事があります。それは、儚い尊い先人の若き命の叫びを戦後の日本で生まれた団塊の世代の私でもなんとか引き継いでいけるものはないだろうかといった無意識に身についたものが私の体に宿っていたように思えてならないという事です。
父の乗っていた輸送船も沈没しましたが1昼夜太平洋に浮いていたところを奇跡的に助けられ、その港へ着いたのは1隻のみだったからして当時の日本は国民の命を粗雑に扱っていました。
戦地に赴く前からしてそうゆう状況下からしてルバング島での米軍と戦い瀕死の状況は押して知るべしの如くでした。
カラオケの好きな私の両親から、度々呼び出された事がありました。駆け付けてみると夫婦仲良く陽気に歌っていました。レパートリーは広く歌の上手さは私が足元にも寄らないほどでした。母は詩吟十段の免許皆伝のせいもあってか父と同じくらいの上手さでした。
そんなあるカラオケの夜、父に素朴な疑問を投げかけた事がありました。
それは、私は父から1度も軍歌を聞いた事がない事でした。
その時の父は、戦地で交戦国の相手の顔が見える位置にいた人は勢いがある軍歌は歌えないものだというような事を話してくださいました(とても、話してくれたとは言えません)。
軍の上層部で別室で地図を広げてどう攻めるかの作戦会議に携わる人や最前線にいなかった人は元気良く威勢良く歌えるかもしれないといったような趣旨の話を記憶しています。
私は、激戦地の島こそは違えども、戦争の残骸と島の人々を確認したい一心で、家族に行き先さえも告げづに、後ろ髪を引かれながらも、命がけの国外脱出を逃げるように実行しました。
明日お92歳の母さんが退院されるという娘さんによると、両親は博多空襲で全てを失って山口県の宇部市に死活を求めてやってきたそうでした。
人の人生を不幸にする戦争 紛争 テロなどをしなくても生きて行ける世の中、社会を作るのは1票を投じる国民にその責任の源があります。国民 市民の心の表れが今の社会のように思えてなりません。
私の父は、2001年(平成13年)師走に大動脈破裂で急死しました。享年80歳でした。当時の母は74歳、私は52歳でした。今年2017年(平成29年)師走にその17回忌を迎えます。現在の私の母は89歳、私は68歳になりました。父が生きていたら95歳になります。
救急車の消防職員さんや美祢市総合病院当直医師さんによると父が倒れた衝撃の痛みを感じる前に亡くなっていたそうで、父の生前からの希望通りの死に際でした。
翻って、私の母は元気な時から、私が良いと判断する事であれば、どのような痛い目にあっても どのような手術にも耐えてみせると話していた事を思い出しています。
ひとの命に関する思いは それぞれですから、自分の感情だけで ましてや他人の意見でその判断を後年に悔やむ事を軽減する意味でも、自分の母親の寿命に関するキーパーソンとしての責務を全うしたいと思っています。
最近、親よりは子供の方を大事にせなあかんやろっと電話中いわれた大阪時代の同級生を思い出したりしながらの葛藤も、その方の目を見ていると安らぐ気持ちになるから不思議でした。
私にも、来月には90歳の誕生日を迎える母が、何れ、例え車椅子でも退院出来て、先程の方のお母さんのようにまたデイサービスやショートステイに自宅から通えると有難い気持ちになりました。
その事でも、共感出来る初めての眼差しの方でした。
今の気持ちで間違っていなかったという共感のようなものを感じ合えた新しい心の躍動感が私の全身に漲りる思いがしました。
雨の☔️山口市でしたが、92歳の母親と同居して居られるような感じを受けた方(兄がいるけどねっと静かに言われましたが)で、物静かな中にも親を再生させて、またデイサービスやショウトスティ生活の再現に漕ぎ着けられたと言う達成感という実績からくる偉大なるオーラを感じるという、暗い空でしたが心は晴れやかな気分の七夕🎋でした。
私がこれまで感じた 俗に著名人と呼ばれる人とは比較する事さえ出来ない程の、最大のオーラでした。