[325]奈良の人 One person in Nara

投稿日時:2018年12月25日  タグ:なし
【FB会話より移行編集】末永 輝清→ 昔、阿倍野区に下宿していました。
あべの って聞いて、懐かしさで一杯です。 天王寺駅の近くでした。
RI..H →そうなんですね!私は実は阿倍野に生まれ育ったんです。天王寺駅周辺はもう随分変わりましたよ。
末永 輝清 →RHさん そうでしたか。
【今から半世紀前の当時は】
風呂は下宿先よりアーケード街へ進み 天王寺駅とは反対方向に歩いたところに大衆浴場があり、通いました。
銭湯経営者の娘さんだろうか、色白(肌が白い)の若くて機敏な女性が男性風呂の広い洗い場の桶などの片付けで動き回られるのに最初は驚いたものでした。
私は3人兄弟の長男だし、ずっと柔道部(当時は、女子の柔道部はない時代でしたし、また 男子も体重別などもなかった時代で、柔よく剛を制すの精神が当たり前でした)だったし、
男性社会のなかで育った感がありましたから、尚更でした。
私は家業を継ぐために生まれてきたので、 高校卒業と共に全国で唯一営業写真学科のある専門学校で学ぶ為にここにきました。
従って、1番恐れたことは、 女性を好きになることでした。
万が一 恋愛をして、その人が1人娘や姉妹の長女だったら養子に行かなくてはならなくなる可能性があり、家業を継ぐ目的に反してしまうからでした。
(つまり、結婚を前提にしない恋愛をする意思は皆無でしたし、一刻も自立することが私の当時の最大の目標でした)
しかし、卒業作品(展)の制作も仕上がって 卒業式間近の頃、
(今 半世紀前を振り返ると、私が私の長男の大学卒業式に私たち夫婦が行けなかったように、長男である私の卒業式には両親は来なかったように記憶しています。当時の両親は まず働くことが第一の時代でした。
三男:私の末弟の大学の卒業式には最後だからと出席したみたいでしたし、私も次男と三男の専門学校と大学の卒業式に出席しました)、
丁度私より2歳下の次男が山口県から各駅停車の列車(鈍行:当時は一駅一駅の様子を確認しながら移動することも特別なことではない時代でした)で私の下宿に泊まりに来た日でしたが、
私と同じクラスの兵庫県の写真舘の娘さん (Kazu..Kuro..)が、心斎橋でモデル(Kei..Yosi..さん)になってくださる人というかモデルに相応わしい人を見つけたとのことで、
一緒に学校のスタジオを借りての人物撮影に誘われ、その御礼は全紙パネル張り写真をプレゼントして下さいとのことで、
この日に天王寺駅で待ち合わせをして会心作品を渡しました。
厳密には、下宿先でサインをして渡しました。
女性を部屋に入れることは常識的にタブーでしたが、何故か2歳下の弟が到着したばかりだった為、弟の前でサインをして手渡したかったのかもしれません。
10秒以内の室内滞在時間だったように記憶しています。
それでも、家主の三好文子さんに一声お断りしてから2階へ上がったにしても、女性が単身で男性の部屋に入るわけですから、常識からすれば違反は違反でした。
今考えてみると、彼女(KYさん)も勇気があるというか、無鉄砲だと言えば無鉄砲でした。
案の定、彼女が階段を登る姿を確認した途端に下から家主(三好文子さん)の「末永さん!すぐ一緒に降りるように」っと 矢のような催促がありました。
私はそのモデルになってくださったKYさんの連絡先を知らないので、その待ち合わせ時間と場所もその同級生KKさんがしました。
KYさんの目の前でパネル版の裏にマジックで私の住所と名前を書きました。
(彼女の住所や連絡先も聞かないままでした)
その時、天王寺駅迄彼女を送って行った際(女性と二人だけで下宿から天王寺駅迄の数分間も、至近距離で並んで歩くこと自体大阪時代では初めてのことでした)、
天王寺駅構内で別れ際に、何故か無意識のうちにデートの約束をしてしまいました。
無意識でしたから全く覚えていません。お互いのオーラでというか、目で会話をしたような気がします。以心伝心、言葉はなかったようにも思えてなりません。
数日後、待ち合わせの同じ天王寺駅構内で落ち合いました。
奈良から来られたようでした。
「どこに行く?」っと私が言った記憶があります。
(頭の中はデートコースについても全くの白紙状態でした。唯(ただ)一緒にいるだけで新鮮でした。じっと顔を見るわけでもないのにです。会話をどんどんする訳でもないし。)
「梅田」っと、KYさんは 即座に答えました。
半世紀も昔のことですが、考えてみると、彼女は必要なことだけを口にする人でした。
卒業後は当初の目的通り家業を継ぐために田舎の山口県美祢市へ帰郷して、
私の父が経営している末永写真舘を手伝いながら、夜間に経営を学ぶことが出来る唯一の大学が北九州市にあるのでそこへ通学することが直近の目標だということを話した途端、
彼女は 喫茶店内に響き渡るような声で「ダメー!」っと一言。
その後、どこにも行く当てもないし考えても居なかったので時間をつぶすというか時間の経過を図るために、その通りすがりに有った映画館に入りました。タイトルも内容も全く記憶がありません。ただ近くにというかそばにずっと彼女がいました。
その後、彼女が知っているらしい喫茶店へと向かいました。
彼女が案内してくれた梅田駅近くの喫茶店を後にした頃には、もう綺麗な夜景が眩しい頃でした。
私が人生で最初に接吻をしたのは彼女でした。
私が末永写真舘の第一子として生まれて来たから出会えることが出来た運命の人でした。
私が末永家の長男でなかったら、大分国体会場で勧誘を受けた明治大学で水球に打ち込んで家業を継がない人生を送っていました。
当然のことですが大阪に行くことはなく、KYさんには出会うことはなかったでしょう。
KYさんと出会う切っ掛けとなった同級生のKKさんとも出会うこともなかったでしょうし、ましてや同じクラスのKKさんが一緒に撮影しようっと私を誘うこともなかったでしょう。
 
私が帰省後、大学を受験して働きながら北九州市にある八幡大学の夜間で経営を学ぶために通いました。
いつだったか、その頃 私の母と話している時、文脈からして不自然な言葉が気になったことがありました。
それは「奈良」っという名詞でした。しかし、私は目の前の仕事と学問に必死でしたから、気に留めないように聞き流してしまいました。
今、その当時から約半世紀経過しました。そして、私の母は90歳と2ヶ月を過ぎて、今病床にいます。
私は何時も私の母に笑顔で語りかける言葉があります。それは「御母さん、私を第一子として産んでくださって有り難う御座います」です。
その後40年近く経った頃、山口県美祢市大嶺町美祢駅前通りの末永写真舘 美祢本館を独身の長男と次男たちに任せて、
ここ山口市大内御堀に独居生活を送っている私の母との同居を踏まえた設計をした末永写真舘 山口新館を新築開館(2006年平成18年正月/私が56歳の時)しました。
この商業の街大都会浪速(なにわ)大阪で学び過ごした日々。
それは私にとって写真の原点時代でもあり、何故か半世紀後に近ずいたその頃から、急激にその当時の青春の真っ盛りの時代の頃が頭を過ぎるようになりました。
半世紀前の当時の私は、和歌山出身で小学校3年生だったかその頃に大阪でへ奉公に出されて自転車の宣伝のために競輪選手の真似事や電気専門学校の夜学へ通っていた際 岸壁から夜の海に墜落したりしながら、松下電器産業を大きくされた松下幸之助さんやあの本田宗一郎さんなどの自叙伝を全て読み漁っていましたが、
その会社に限らず、大企業や成金的というか急成長の組織も含めて、その社員たちと、話す機会があっても、その組織の創業者の創業理念や生い立ちを知らなくても入社できることに驚いたことがありました。
つまり、その会社の創業者の思いよりも、給料が多くて就職条件が優先する時代の到来に鳥肌がたったことがありました。
大企業といえども、というか、規模の拡大に伴って、創業精神というか創業理念とは裏腹な寄らば大樹の陰的集団化して一気に崩れ去るという傾向は昔から繰り返されていることでもあり、栄枯盛衰は世の慣(なら)いなのでしょう。
人間の性(さが)なのでしょう。
十人十色。人それぞれでこの世の中は成り立っているからしょうがないのでしょう。
私は両親から受け継いだDNAに感謝しています。
先の戦争で日本国民は人間らしさを失いつつも、両親は良くその意思を貫いて真っ当に生き抜いてくださったかと思うと、
【私は期待されてこの世に生まれて来て定められた運命の道を歩く上で、彼女(KYさん)との出会いは神様からの最大の贈り物のような気がしてなりません。
それは、人の機微(きび)を知る切っ掛けとなったからです。】
私は人物写真撮影制作を中心とした営業写真館の道へ進んで、これまで約半世紀歩んできました。
今の所、芸能界や商業界や官公庁や諸々が挙って実施して祝杯を挙げているような50周年記念イヴェントを考えているわけでもありませんが、
その都度必要な纏(まと)め的な写真集や写真展や記念誌やオベリスク(記念モニュメント/碑)や増改築や諸々の制作などをしてきました。
【KYさんとの約半日のデートの御蔭で、私は人生の機微や写真の機微を考えるようになりました。】
その専門学校を卒業後、山口県美祢市に帰省して昼間働きながら夕刻から北九州市に位置する大学の夜間へ通いましたが、
大学を卒業後、下関市の従兄弟つまり私の母の7人兄妹内の3姉妹の次女貞子さんの長男(TugunariYamada)から紹介されて、結婚を前提に1度デートしたことがありました。
彼女は、下関大丸で南太平洋の泉 トラックラグーンの人々の写真展を見たということで私に興味を持たれたそうで、山口銀行本店に勤務の娘さんだそうでした。
従兄弟(TY)が家庭教師をしていたので私にぴったりだと太鼓判を押された方でした。
しかし、カラー写真の普及を見越してカラー写真総合現像所を創業したばかりの私にとっては、
美祢市から下関市の彼女の自宅まで片道1時間以上要する為、物理的にデートは諦めざるを得ませんでした。
考えてみると、1度きりのデートでしか縁のない程の時間的に高速の生活を送っていた中での結婚相手選びでした。
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【また、今から22~3年前】
私の長男が大阪芸大の写真学科に合格した頃だから、 当時の下宿先に家族の5人で挨拶に行きましたが、リサさんの言われるように 全く街が変わっていました。
下宿先付近の町並みはありましたが、当時の三好文子さんやその妹さんはどうやらその長女の暮らす家に行かれているような気がしました。
初めて見る当時のご主人さんらしき人が、この当時の下宿先に戻られて1人で暮らしている様子でしたが、
当時の奥さんの住所は分からない様な対応でした。
御土産を渡して下さいと言って託けて帰りましたが、離婚されて交信が無いようにも感じられて、
私達夫婦と子供3兄弟の5人が当時の学校の跡地の再開発された街並みを見て、
天王寺駅から大阪芸大の位置する田舎方面(といっても死後聖徳太子と呼ばれる人物の生誕地)へ向かい、
その下宿の窓や網戸など全て外しての拭き掃除をして、長男だけを残して山口県へ帰宅した事がありました。
 RH→ 私は51年前に生まれたので末永さんと近くにいた時期があったんですね。
お話を読ませていただくだけでなんだかとても感慨深いものがあります。近鉄百貨店や都ホテル、ステーションデパートなどは全く面影もなくなってしまいました。
 末永 輝清 →RHさん そうだったのですね。
【今から半世紀前】 あの阿倍野の同じ空気を吸って生きていたのですね。
しかし、近鉄百貨店が無くなっているとはね。
あの下に南海電車の駅がありました。
【今から約30年前】30歳代後半だったか、日本青年会議所か、日本写真専門学校の同窓会だったか 何かの会合で大阪で宿泊した際、
夜1人で、わざわざあの懐かしい環状線に乗って天王寺駅迄行って深呼吸した事がありました。
その頃はまだ近鉄百貨店はあった様な気がします。記憶が定かではありませんが。
その時は、時間が無くて、天王寺駅から、大きな歩道橋を渡って嘗ての下宿方面側の歩道かアーケード街入口辺りにあった屋台で立ったままつまみとお酒を飲んで直ぐ引き返した事がありました。
学生時代は、夜出歩くことは殆ど無く、この時の屋台は印象的で考え深いものがありましした。
唯一度、同じクラスの長野県の写真舘の息子さんと2人で難波だったか、立派なキャバレーへ行って、お金が足りなくて、
事務所にその友達1人を人質に残して、最終電車かタクシーで下宿迄戻って送金してもらって間もない封筒をそのまま持ってキャバレーへ戻った事もありましたが。
(確か、電車賃を事務所内で支配人のような男性から渡されてその大型キャバレーをお後にしました)
その友人が後日私に話すには、あの夜 私が戻ってこないかと思ったと話たくらいですから。しかし、後日男性仲間間で珍しい話として囁(ささや)かれたにもかかわらず、
下田君とは以来音信不通になってしまいました。それでも映画のようなゴージャスな経験を共有することが出来ました。そしてなによりも無事に帰宅出来たので素晴らしい思い出です。
 RH→ 近鉄百貨店はあべのハルカスの中に入ってしまいました。26年前に一度建て替えられた当時は「売り場面積が西日本最大」と言われていました。
周辺には確かに趣きのあるいいお店が結構ありましたね。ハルカスになってから天王寺あべの界隈が劇的に変わってしまいました。
阪堺線(チンチン電車)は辛うじて残っていますよ。
末永 輝清 →RH さん 当時を思い出すと、目頭が熱くなり、高齢のためか涙が出ます。
ハルカスはテレビでの印象しか知りません。
長男の卒業式にも行っていない様に思います。
次男が幼少の頃、南紀白浜温泉で同窓会があった時に連れて行き、帰りに次男を肩車をしてあの人でごった返した御堂筋を歩いた事も、御蔭で思い出しました。
次男も大阪の専門学校を卒業して、有名写真舘へ勤めた後帰郷して長男と共にまだどちらも独身ですが田舎の本館を継いでいます。