[274]リスボンの新聞少年像を母と訪ねて

投稿日時:2017年07月08日  カテゴリー:自分史  タグ:なし
(FBコメント欄より移行して編集)末永 輝清 →ありがとう。 早いもので、この写真の頃から既に8年以上も経過しました。
当時、81歳という母の高齢を心配しましたが、思い切って、国外脱出して良かったです。
この世界一周の時、スペインのお隣のリスボンで世界初の新聞社を記念した新聞少年の像を母と訪ねました。
その像の前で、私が小学校6年生(1960年昭和35年4月の11歳~1961年昭和36年3月の12歳迄)の時の新聞配達をさせていただけたことを母と一緒に思い出して当時を懐かしんでお互いに嬉し涙を流しました。
私の願いは、小学校6年生の1年間だけという条件付きで、父から許されました。
この新聞配達での教訓は数知れず有りました。
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その中で、【私の人生を決める出来事が二つありました。】
先づ、【その第一は、母が、小学校六年生に成り立ての私に、私名義の郵便貯金通帳を作ってくださったことです。】
当時、新聞配達をさせていただけた、それだけで、つまり 自分の希望を叶えてもらっただけで大満足だったのでした。
人生初のお給金、今風ではアルバイト代金・給料を、そのまま母に渡しました。
私は、不謹慎かもしれませんが、お金が欲しくて新聞配達をしたかったのではありませんでしたので。
しかし、暫くたって、母は私名義の郵便貯金通帳を作ってくださいました。
☆この瞬間が、私の貯金やお金の大切さを意識することの始まりでした。
また、その後11年間一度も引き出すことがなくコツコツ貯めた郵便貯金の全額を22歳を目前にした1971年(昭和46年)2月の雪の日にその全額を引き出して初めてのカメラ一人旅へ飛び立ちました。
当時はまだ海外旅行は珍しく、ましてや南方戦線で山本五十六元帥が撃墜されたミクロネシア地域に位置するトラック諸島にわざわざ自腹で行く人はいませんでした。
このことは、取りも直さず父がフィリッピンのマニラ港へ向かう11隻の輸送船が米軍の潜水艦から発射される魚雷の餌食になって海の藻屑と散っていった儚い尊い先人の若き命の叫びを戦後の日本で生まれた団塊の世代の私でもなんとか引き継いでいけるものはないだろうかといった無意識に身についたものが私の体に宿っていたように思えてなりません。
父の乗っていた輸送船も沈没しましたが1昼夜太平洋に浮いていたところを奇跡的に助けられ、その港へ着いたのは1隻のみだったからして当時の日本は国民の命を粗雑に扱っていました。
戦地に赴く前からしてそうゆう状況下からしてルバング島での米軍と戦い瀕死の状況は押して知るべしの如くでした。
私は、激戦地の島こそは違えども、戦争の残骸と島の人々を確認したい一心で、家族に行き先さえも告げづに、後ろ髪を引かれながらも、命がけの国外脱出を逃げるように実行しました。
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また、【その第二は、私の我儘な要望を受けてくださったために、母は私よりも毎朝早く起きたりして、私以上に気を使わせてしまったことです。】
今から半世紀以上昔の当時の新聞折込は手作業でしたから、午前3時頃から起きてその準備に行きました。
ある日、両手を使うために風雨の日は傘ではなくて、雨合羽に長靴姿で我が家をいつものように元気に飛び出しました。
当時の山口県美祢市伊佐町の舗装されバスが通っていたメイン通りを一直線に50mほど緩やかな上り坂を走ってカーブに差し掛かる付近で、その日に限って、なぜか小学校6年生の私は我が家を振り返ったのです。
母が、風雨の中で肩を丸めてじっと私の後ろ姿が見えなくなるまで、道路の真ん中に立って長男の私を見送っていたのでした。 この瞬間に、私は将来 母を悲しませることはできないと思いました。
この2つが、当時の私の人生の大きな出来事でした。
約半世紀も経って、遥か、彼方のスペインからリスボンまで母と訪ねて、新聞少年の像の前で母に初めてその当時のお礼をハッキリ伝えることができました。
この写真は、いろんな思いが詰まった宝物です。
有り難う