[279]消えた観音様

投稿日時:2017年07月14日  カテゴリー:自分史  タグ:なし

【FBより移行しました】
2017年(平成29年)7月13日thursday.19:04.
山口県美祢市伊佐町の自宅の観音様のあるほうの庭????

観音様が何処の位置にあるのでしょう。

そこに到達するまで、あのマチュピチュもジャングルだったのだなぁっと思いながら足元を確保しながら少しずつ前進しました。

藪蚊に刺されながら、ジャングルと化した未開地を1ミリずつ開拓していきました。

それは、今から丁度115年前の1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見したアグスティン・リサラガ(クスコの農場主)、

その9年後の1911年7月24日にアハイラム・ビンガム(アメリカの探検家)が発見後1915年までに3回の発掘を行い、「失われたインカの都市」(ベスト・セラー)、1930年『マチュ・ピチュ:インカの要塞』を著したことなどが頭を掠める程でした。

私がこの庭の手入れに訪れる度に、私の妻が私に話すことがあります。

末永家の2代目の長男だった私の父は、その長男の3代目の私に伝えたかったことを、私の妻(3代目の長男の嫁)に話したことでした。

それは、この観音様の近くに私の両親の老後用にと 狭い平屋を新築した際のこの庭の足元のことでした。

私の父は、庭の草引きなどの手入れを考慮してなのか コンクリートにしたかったのに、私の母は観音様のある庭に相応しいと思ったのか 敷石にしたということでした。

母が元気なうちは手入れが出来ていても、父が亡くなって独居生活になった頃には高齢も重なって思うように身体が動かなくなって足元の草引きさえも重労働になることを心配していたのではないだろうかということが推察出来、

当時の両親のこの観音様に対する其々の心の葛藤が伺い知れます。

そんなこんなのことが、滴る汗と共に、玉砂利の隙間から切磋琢磨して際限無くというか容赦無く生えてくる、その草の種類が、

その歳月と共に変化して毎年根強い蔦のようなものに変化していて、その見えない壁が立ちはだかって、

しかも私自身も69歳近くと歳を重ねてきたせいか、

庭の足元の玉砂利の目詰まりやその下の土壌の変化なども加味して草引きの仕方自体が単純でなくなって次第に観音様が遠い存在になりつつありました。

隣の空き地から蔦が塀を越えて観音様を覆っていました。

厳密には、巻き付いていて、一本一本手作業で足元が不安定なので、何度もふらつきながら取り除きました。

祖父母といっても、全権祖父の時代でしたが、当時お付き合いのあった伊佐町の2つの御寺と 秋芳町の御寺から、3名の僧侶をお招きして設置されたこの観音様。

後にこの側に私の両親が老後用の平屋を新築して暮らしていました。

父が亡くなって以来、独居となった母も次第に老いてきていました。

昔、母が御見合いして隣町の大嶺町中村の小方家から嫁いできた頃の伊佐町は美祢市の中心街でした。更に昔の江戸時代には市があり栄えた町でした。

私が幼い頃は、メイン道路を挟んだ我が家の向かい側に美祢市警察署がありました。

しかし、その後大嶺町へ移転し、その跡地に簡易裁判所になりましたが、軈てそれも厚狭郡楠木町船木へ移転しました。

つまり、車社会になってバイパス道路が別に出来て人や物の流れが大嶺町へと移動していき、それに伴って老いた母の買い物や生活は不便になってきていました。

当時 働き盛りの私は、仕事の合間に短時間集中して庭の手入れをするのが長男の私の役割りでした。

別に誰から言われたわけではないのですが、そのように私の遺伝子に組み込まれいるように感じて自然に身体が動くようです。

母はその度に凄く喜んでいました。冷たいものを準備して勧めて貰っても話す間も無く次の仕事へ向かった頃を思い出しました。

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些細なことですが、こんなことも思い出にあります。

それは、秋の釣瓶落としで あっという間に暗闇になっても、屋内の灯りが庭の私を照らしたり、

車で帰宅しようとすれば、家の中を走って私の車の進行方向を照らす外灯のスイッチを入れたりしていた母の動作が面白くて有り難かった楽しい当時が思い出されました。

あと、0.1秒遅れたら私の車が通過した後に、その外灯が点灯して余り意味をなさないのに、ぴったり合わせるところにお互いの笑いをそれぞれ誘っていました。

初めから点灯していても、当たり前過ぎて、往年の陸上競技短距離走選手で0.1秒を競った以心伝心は伝わらないからでした。

母が瞬時をも惜しんで、作業をする私の姿を見ておきたかった心境が懐かしいです。

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今日 日が暮れて薄暗くなって、漸く蔦が外れて観音様の顔が見えて、目が合った時は何とは無しにお互いに笑ってしまいました。

我が家は浄土真宗ですから、経験はないのですが、あの洋画で観る教会での結婚式の際の花嫁のベールを新郎が挙げた瞬間を想像したからでした。

またそれと同時に、観音様が私に漸く来てくれたねっと笑顔で再会したことを喜ばれているように感じたからでした。

ペギー葉山さんの歌声「蔦の絡まるチャペルに 祈りを捧げた日♪」が頭を過りました。

この観音様が設置されて以来、約40年。

私以外にこの観音様の手入れをした人は、祖父母と両親だけでしょうから。

私は第一子として生まれて来て、有り難く思っています。このことは、何時も、病床の89歳の母に御礼を言っています。

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庭に水を撒いたら固まる25kg袋を取り敢えず20個買って試験する予定で来ましたが、隣の空き地から壁を越え浸入しているヒチコックの映画のような不気味な形相を呈していましたので、それどころではありませんでした。

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ここへ来る前に、美祢市大嶺町の駐車場の草取りなどの為に行きましたが、入口の2段ブロックが6枚根元からひっくり返し返ったままでした。

草引きをしていて気付く始末。しかし、警察署や保険会社にも届けないで当て逃げされた事は今回が初めてでした。

考えようによっては、当て方が上手なのか、車やその当事者に損傷や負傷がなかったことも考えられます。

直ぐ写真を撮って、修復の段取りをしましたが、余りにもこの観音様が隠れて見えない情景よりも悲惨な光景だったのでFBには掲載しない事にしました。

歳を重ねて、働けなくなっても、税金や保険や気苦労や諸々を抱えながらも、凡ゆる事柄に真正面から対峙しながら生きて行く すべを耕して行く精神を持たなければなりません。

世の中とは、そのような世界のような気がします。

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私が30歳代後半に態態、不平等な状態を是とした社会ダーウィン主義の実践者アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie/1835年11月25日-1919年8月11日/鋼鉄王/スコットランド出身/享年84歳)の銅像とツーショットの写真を撮影するためにニューヨークのカーネギーホールを訪ねた頃を思い出しています。

昔読んだ書籍などによれば、身寄りのいない晩年の彼は、努力する者を支援するために富が使用されるよう寄付する者の責任論を述べておられました。つまり、貧しいものへ無条件に与えることを有害と考える かた でした。

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話は元に戻りますが、不動産の管理には凄く工夫が必要に思います。夫々の家を修復して1泊ずつ廻ればもっと手入れも出来るのにっと何時も思ってはいるのだけれど。

それぞれの先人の思いが詰まった家屋や庭の手入れ廻りをすることが、

あのお遍路さんのようなというか、

私が生まれた瞬間に運命という名の人生に敷かれたレールというか、

その私の人生というシナリオに、既にあるようにも思えてきました。

私の祖父母や両親や義両親やそれぞれの御先祖の意志を今一度大切にしたいと思いました。

そんな生き方を、私なら出来ると言っているようにも思えてきました。

私には人知れず地味な努力をすることが自分らしいのかも知れません。私に備えてくださった遺伝子に感謝しています。有り難いことです。

末永写真舘
三代目館主 末永輝清68歳
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