[346]私にとっての一期一会 Only once in a lifetime

投稿日時:2018年11月11日  カテゴリー:自分史  タグ:なし
【私にとっての一期一会】(facebok my noteより移行編集)
(4-1).
カラー写真用のフィルム現像機(写真 右)とカラー写真現像機(写真 左)を分解中。 配線だけでも段ボール????一杯位あったような気がします。
末永博物館用に昔のカラーフィルム現像機やカラー写真現像機等関連システム機器等々を保存していましたが、物が増え過ぎたので整理中。
私は戦後のベビーブーム世代 所謂(いわゆる)団塊の世代。
私の青春時代は、モノクロ時代からカラー写真やカラーリバーサルフィルム時代でした。
当時、全国で営業写真学科のある唯一の学校が日本写真専門学校でした。
人体美学や婚礼着付けポーズから大型組み立て式カメラ(大型シートフィルム)を使用してのスタジオや
ロケーション撮影(神戸や京都迄もモデルさんを伴って大型カメラバッグ2個以上や大型三脚持参という体力勝負)や
その暗室での現像作業やその修整を始め、
カラーリバーサルフィルム現像を暗室で実習したりと白髪の熱血 古賀先生を始めしっかりしたカリュキュラムは、
半世紀経った今でも当時これにかなう学校は世界に今もってないように思えるほどです。
(4-2).
田舎へ帰省して私の祖父末永 清弌の勧めもあり伊佐町で私一人から始めたカラー写真現像所。時代はまだモノクロ時代でした。
「骨董」や「観光写真」や「御先祖様」や
「次男に生まれてきてそして長男の役割を果たさなくてはならなくなった私の祖父が、初孫の私に望む(これから歩むであろう)末永家にとって長男としての意義」を祖父自身の生き方等々から私に托する命を感じながら幼い頃から共に暮らしてきました。
やがて、その祖父が亡くなり、私の父の勧めもあり伊佐町の中心街から 大嶺町の中心街へ移動移転しました。
私にとっての一期一会は、同居していてもいつまでもある命では無いので、それなりの心構えを持って接してきた中に芽生えたというか培った(つちかった)ものでした。
それは、私の祖父母であり また私の両親でもありました。
そして、家が買えるほどの高性能なプロセサー(自動現像機)を5~6年おきに買い換えなければ日進月歩な時代の先端に居れない程の時代に突入してしまいました。
この頃から、カラー写真総合現像所は高度の技術と高額の資本投下と新たな経営力が必要となるために、全国の写真館は自力で直処理することは出来なくなりメーカー主導の系列ラボ(カラー写真総合プロ現像所)へ外注する様になり仕事は撮影のみになりました。
私はそういった状況を危惧(きぐ)しました。
それは、美祢市という山口県内においても田舎故に各メーカーからのあらゆる面で不便を感じるがゆえに、田舎の文化に都会との情報や流通面における時間的精神的労力的等々を通して格差が歴然となる恐れを感じたからにほかなりません。
私の父が経営する末永写真舘 美祢本館を手伝いながら、美祢市のメイン道路(アスファルト舗装ではなくコンクリート道路)に面した末永写真舘の道路を隔てた真向いに位置する旧末永写真舘の木造一部2階建を改装しながら、20歳代前半に隣の空き地に鉄骨4階建を建設してカラー写真綜合プロ現像所としてその作業効率を高めるべく心血を注ぎました。
私の父からの指示は一切ありませんでした。
寧ろ(むしろ)、私のほうから私の父へ一言断って(前もって説明して了解を得て)、カラー写真総合プロ現像所を立ち上げました。
従って、私のすることには一切(いっさい)口出しせず(資金的援助も当然一切なく)思う存分自分を信じて働く事が出来ました。
私の小学校6年生の時の新聞配達をさせて欲しいという必死の御願いの時と同様に、大阪から帰省して家業の写真舘を継ぎながら新たなカラー写真総合プロ現像所も私の意思を尊重して下さり感謝しています。
その後、私のお嫁さんにしたい人の話しをした際も、私の父は有無(うむ)を言わずに、父は自分の車に私を乗せて先方の御両親が待つ玄関で私と一緒に結婚の御願いの御挨拶をして下さいました(私は私の両親に対してしてくれたとはとても言えません)ました。
私が何故そんなに働くのかと私の父に訪ねる人が現れたりしたのもこの頃だったそうでした。
当日美祢市唯一の総合病院(宇部興産系列山陽無煙鉱業所経営)の栄養士だった人が、エネルギィー革命によりかつて日露戦争日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を負かしたその燃料である美祢市の無煙炭の閉山とともに運転免許を取得して、私の職場近くの歯科医院の受付に就職して再会を機に結婚しました。
彼女とは、成人振袖撮影に当館へお越し下さり私が撮影しましたし、
また私が小学校6年生の時に新聞配達をさせて頂いた際に私の母は私名義の郵便貯金通帳を作ってくださいました(くれたとは未だ敬語を使用しないとバチが当たりそうな気持ちが有ります)が
私が22歳の時それを全額下ろして、私の父の戦争経験の影響を受けて初めての海外旅行の行先を山本五十六元帥が撃墜されたミクロネシア地域の中のトラック諸島の戦争の痕跡とその島の人々の暮らしを自分の目で確認して写真撮影する目的を果たし
その写真展(カラーとモノクロの全紙パネル張り写真を自分で現像~プリント~パネル仕上げ等その数約100枚)を福岡天神の岩田屋本店や下関大丸や宇部大和等で開催した際、彼女はその母親と共に会場を訪ねてくれたり沢山の縁が有りました。
後日、自費出版した写真集「南太平洋の泉~トラックラグーンの人々~ 末永輝清」を発刊しました。
昭和時代は経済に伴って人も活気のある時代でもありました。
平成時代に入ってあっという間の30年間。
これ迄の人類の高慢さが人為的な災害や歪みとして警鐘を見た時代でもありました。
人類はいつの時代もその過ちの繰り返すもののように思えます。
メディアが俗に平和と呼ぶけれど、現実には形を変えた戦火に他ならず、その中でも生き延びなければなりません。
急激なグローバル化(地球化)に加えて10年位前からデジタル社会化が定着して世の中が重苦しく人の心が軽々しく生活し難い社会に突入し、国の存亡の危機の渦中にあります。少子高齢化も然り(しかり)。
(4-3).
4-3-1.
両親が亡くなり、いよいよ自分の終活というか人生の纏め(まとめ)に拍車がかかりました。
嘗て(かつて)懇意だった 日頃会えない何人かの友達に、私が死ぬ前に会っておきたいと思うこの頃です。
私は家業を継ぐ為に両親や祖父母を始め親族一族郎党から、その三代目として期待されて望まれてこの世に生まれました。
私の母は戦後の大家族の長男にお見合いして嫁ぎ、私は生まれる前から何度も命の危機がありましたが、私の母のお陰で生き延びることが出来ました。
その為に、私は私の両親や御先祖様の期待に添えるように家業を継ぐ為に 凡ゆる(あらゆる)ことを自粛して摂生して生きてきました。
そんな中でもというかそんな中だったからこそ、数少ないけれど真珠のようなというか一期一会の出会いがありました。
4-3-2.
家業を継ぐ為には、大都会の【文化】と【恋愛】は最大の恐怖というか最大の障壁でもありましたが、その二つをなんと奇跡的にクリアする事が出来ました。
4-3-3.
私にとって家業を継ぐうえで最大の障壁のその一つは、大阪という大都会の文化に飲み込まれそうだということでした。
このまま大阪の文化という環境下に浸っていれば山口県美祢市という田舎へ帰りたくなくなる自分が見えてきたのです。
家業を継ぐという その自分の意思を貫く為に、退学をすることで免れようとしました。
何度かその為にわざわざ帰省して、私の父に頼み込みましたが、仕事が終わって夜遅く帰宅した私の父の言葉は「卒業だけはしてくれ」の一点張りでした。
4-3-4.
私にとって家業を継ぐうえで最大の障壁のその二は、青春の多感な時期での恋愛でした。
もし私が好きになった女性が一人っ子や姉妹の長女だったら、養子に入らなければならなくなる可能性が私の頭から片時も離れなかったからでした。
誰に言われたわけでもないのにそう感じたのは、生まれ持った私のDNA運命の成し得た宿命のように思っています。
折角(せっかく)それ程(まるで修行僧のように)意識してきたのに、何故か卒業前になんと無意識にデート(大阪時代最初で最後)をしてしまいました。
それは私にとって人生最大の一期一会でした。
今でも、最後(帰り)に天王寺駅構内で別れ際の彼女(K.Yさん)の瞳が私の脳裏から離れないどころか、
13年前に美祢市の末永写真舘美祢本館を長男と次男達に任せて、山口市大内御堀の地に末永写真舘山口新館建設以来年々その時の様子が鮮明度を増幅させてくるから不思議です。
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しかし、それ(この二つ)があったからこそ、末永写真舘本館を継ぐこと(切っ掛け)が出来ました。
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先程の50年前、そして30年前にも劇的な出逢いがありました。その人生の機微(きび)を知る事の御陰があったからこそ営業写真館という職業分類において、人が人を撮影するという人物一筋に半世紀間も仕事として撮影することができたように思います。
ところで、私も間も無く古稀を迎えると歳になりました。
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多感な青春時代を過ごした大阪時代の友人と賀状のやり取りをしていましたがお互いの家族に不幸があったりした事もあり、そのまま音信が途絶えたままだったS.Oさん。
5年前だったか当時私の母親との「車椅子世界介助旅行」を学問的に纏(まと)める為に(論文として)夜間に国際関係を幅広く学び直す唯一の九州国際大学の国際関係学部を6年前の2012年(平成24年)3月に(当時の私の年齢は63歳)若い学生と共に受験し3学年(3回生)に編入合格。
そして未だに納得のいかない その学割の効かない高速道路を通学し、大学の学部4年生の後期試験と卒業論文が重なった時期11月頃だろうかパソコンセンターにて同級生といっても40歳以上年齢が離れている若い学生からfacebookの存在を知った際に、
先程の半世紀前の大阪時代の同級生O.Sさんを検索したら何と彼もfacebookをしていたことが過去の50年間という時空間距離を瞬時に手元にあるiphoneに近ずけることになりました。
私は、学部を卒業とともに同大学の先輩でもあり韓国へ留学経験もある方の勧めもあり、一緒に同大学院を受験しました。
合格した頃は、私と私の妻の夫々(それぞれ)の母親の入退院時期と重なった挙げ句、美祢ロータリークラブの2度目の会長職をある予定していた会員が都合が付かなくなってそのピンチヒッターとしてお引く受けせざるを得ない状況になり、
更に山口市大内御堀町内会副会長兼総務委員長兼ブロック長兼班長や美祢市の大嶺町の町内会長職、美祢青年会議所OB会長等々あらゆるボランティアの役員任期と重複して、
先程の2人の母親には命に関わる時期にもかかわらず申し訳ない事をしました。
従って、凡(あら)ゆるボランティアから卒業させて頂くとともに、数年前から半世紀振りの再会を約しましたが私の母親の容態が優れない状況が長引いて延び延びになっていました。
この2018年(平成30年)12月に数年越しに半世紀振りに会うことになりました。
彼は卒業後異業種(牧師)に進まれて成功を収められたようで、京都等で講演をされるのを契機に態態(わざわざ)山口市迄来られ、既(すで)に自分で予約されたビジネスホテルに1泊されて翌日に名古屋迄戻られてから、現在お住まいの自宅迄移動されるようです。
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