[368]2年と100日目 2 year and 100 days

投稿日時:2018年12月24日  タグ:なし

[368]2年と100日目 2 year and 100 days

【写真:55年前、小学校卒業式後母と共に】*
1961年(昭和36年)3月.山口県美祢市立伊佐小学校卒業式当日同校庭にて母と共に。母は33歳、私は12歳の頃。
【母が緊急入院延命措置して本日で丁度100日目】
入院後34日目に2回目の手術、その後50日目(通算83日目)に3度目の手術、その後18日目(通算100日目)を迎えました。
今日(2016年12月23日金曜日)の母の病室担当者はToyom..Matumo..看護師さん(Nagasa..出身)で、21時からの夜勤の母の病室担当はAkir.Watana..看護師さん(Fou..出身)でした。
此方の病院は、緊急総合病院の印象が強いからか、
これ迄昨年4月に亡くなった義母の介助看護等でお世話になった病院・リハビリ病院などとは方針が異なっていて、職員の顔写真と氏名などは暗記するしかない所でした。
高齢の私でも、100日間関心を持って意識して通っていると、少しずつ職員の方たちのことを覚えてきました。
今夜も、正面玄関の東側には日頃ない車が、私が母を訪ねた際は1台慌てたような駐車の仕方がしてありました。
そして、私が母を見舞った後 病院を後にする際は、先程の車は既になくて新たな2台の車がきちんと駐車してありました。
この場所は、日々刻々と人の命に関わる事柄がある現場なのだなっと改めて思いました。
ここは白や黄色のラインは僅かな痕跡を遺して消えているところです。
恐らく、近い内に北側にある病院の駐車場辺りに病院を新築して、この道路側にある病院は駐車場になるのではないかなっと思ったりしています。
今日はアテンドの内用の日中用&夜間用の2種類の買い置き用と、
洗濯物と、そしてクラシック曲のみのカセットテープを持参して手足首筋の軽いマッサージの際の会話中のBGM用に使用しました。
20時を回っていたし、外気が冷たいので部屋のカーテンは私が閉めました。
先程のTM看護師さんが入室されて夕食用の点滴終了後の2種類の液体を注入されて管の蓋をされ、口と喉の痰を吸引していただいて
先程吸引しましたと言われながらも、母の呼吸とともに発する喉に痰が詰まったようなゴーヴォーというかある種の咳のような擬音がするので
いつものように入室とともに病室のブザーを母の代わりに母の了解のもとに押しました。
 
【ブザーを押すたびに思い出すこと】
ところで、例えは不謹慎で悪いのですが、
16年前2001年平成13年12月16日の父の葬儀後の火葬場での棺桶に火を入れるスイッチを押すように市の職員さんから促された際に
母は「イヤー!、ワー」っと、部屋に母の悲痛な声が木霊して泣き崩れました。
側にいた私が、大勢の父の兄弟や親族の見つめる中で母に代わってそのスイッチを押す役目は長男で、しかもずーっと両親の側にいた私しかいないと思って、
気絶しそうで意識朦朧として立っていることさえままならない母を支えながら
「お母さん、押すよ!」っと涙ながらにその父との最後の別れの赤いボタンを母の了解のもとに母の代わりに押したことがありました。
16年後の今この100日間毎日1度は母の病室からナースへつながっていると思われるこのブザーを母の了解を得て押すたびにその母の心境を思い出します。
体の向きをこれまでの右向きから左向きにされました
母は高等女学校時代は陸上部でしたが、TM看護師さんはバスケット部と思っていましたがテニス部だったそうでした。
昨日の木曜日は耳鼻咽喉科のSS医師が一週間おきの喉管の交換日でした。
一昨日の日中はKanaza..看護師さんで、バトンタッチされて21時からの母の担当看護師さんはAb.看護師さんでした。
 
【嫁と姑】
最近は、また日暮れ辺りに母の病床を訪ねることが多くなりました。
TM看護師さんに、いつも(面会時間が終わる20時という時間帯なのに)母の目が開いているけど、昼間寝ているのかね〜。
つまり、夜寝ていなくて昼と夜が逆の認識になってはいないだろうかと思わず呟いてしまいました。
すると、もうそろそろ息子さん(長男の私のこと)が来られる時間だから、待って居られるのです。と言われました。
そして、夜は良く眠って居られます。昼間は起きて居られますよ。っと言ってくださいました。
一時期、私は昼間のリハビリの時間に出来るだけ合わせて母の病床を訪ねたことがありましたが、
眠っているというか うとうととしていることが多かったことが気掛かりだったからでした。
思い当たる節とすれば、
母は個室だからと言って、助言を受けてラジカセなどを持参して机上に置いて看護師さんが適当にCDなんかをかけて頂いていますが、
夜の消灯22時にラジカセの音を切りますと言われていたのも気になっていました。
妻からは、
度々高齢者取り分け私の母と同居していた頃も、母は早目に就寝されていましたのでといって、夜の10時迄の音量に対して異議を唱えていました。
しかし、
私は病床の母に聞いてはその都度ラジカセをそのままにしていたり、音量を下げたり、曲を替えたり、ラジオに切り換えたり、たまには電源を切ったりして帰宅していました。
しかし、
この1週間前頃から、ようやく妻の意見を私が取り入れてから、随分母の目力が着いてきたように感じられるようになってきました。
要は、
母の病状に臨機応変に対応して刻々と調節していくことの重要性を感じました。
そして、
女性というか取り分け妻(長女でしかもその両親のそばに生まれてから義母が亡くなるまで、ずっといた)の感の鋭さというか、
長男の嫁としての適正さというか 命に関わる的確な判断力を感じました。
もっと素直に妻の意見を取り入れていたら、母の病状も幾らかでも良くなっていたように思いました。
当然のことながら、
私の妻は私の母とは他人ながら、長男の嫁という立場の在り方を身心ともに鍛えられてまた期待されて、
他の兄弟夫婦とは比較にならないというか格段差というか天地ほど期待の大きさを持って試練の日々を過ごしてきたようです。
そしてその代償としては、
誰よりも私の母親という理由だけで、姑の晩年を恥じをかかせることなく姑の納得いく様に看取らなくてはならない運命にあります。
今 病床に伏せている89歳の母も、
かつて 91歳の祖母フデを父と共に夫婦して看取ってくださいました。
しかも、
母は大家族の長男に嫁いで新婚時代は父の兄弟の食事などの御世話などして自分の食事などは後回しは当たり前の時代で、
私が母のお腹にいた頃は空腹をと思うと感慨深いものがあります。
私の妻もまた同様に、
私たちの新婚時代は私の弟たちの食事の世話などまでもしていました。
(私の知る限りでは2代、祖父母の新婚の時代は2度の大戦等で国民の命が粗末に扱われる社会故の家族親族の助け合いがなければ生きられない世の中であったように推察されます。
そう考えますとなんと3代続けて末永家の嫁、そして2代続けて長男の嫁には苦労をかけました)
そして、今 私たちの夫婦もまた長男の嫁(私の妻)と姑(私の母)の葛藤の幕引きを感じ始めています。
 
【約束】
今日の母は、久し振りに私との会話中に一気に感激の涙を溢しました。
会話内容は、
名前や生年月日や年齢や、カレンダーを見せながら年月日や時間や気候の話や、
母が気にしている父が建てた店舗や晩年老後用に母が父と二人で暮らした家屋や庭や祖父母が建てた家屋や庭などなどの清掃修繕関係等々でした。
「今日は、この病院に搬送されてきて以来、そして即延命処置をお願いして以来丁度100日目よ。よく頑張ったね。だんだん数値が良くなりつつあるからね。」
の私の声に対してじっと私の目を直視して、そして病床の母は耳を研ぎ澄ましておられるかのようでした。
そして、納得したかのように顔を縦に頷いてくださいました。母は面長で顎が長いので、入れ歯を外していても仕草が明確なので有り難いです。
「車椅子で動けるようになったら、またお母さんが好きなハワイで療養しようね。今の段階で人に言ったら驚いてじゃから人には言えないけどね」、
と言った とたんの嬉しそうな顔をした後の母の涙でした。
 
そして、
「お母さんと私との約束であり目標の一つに100歳までは寝たきりにならないで、せめて車椅子で人生を楽しもうだったね。」の語りかけに対しては、
このことは、母はハッキリ覚えておられていた様子でした。目の焦点がしっかりとしていました。
母と同居を始めた時点から同じことを話しているので、まだその可能性があることを母は感じたようでした。
いちぶの望みに奇跡を信じる飽く無き100日間でもありました。
 
【この写真の6年生だったその1年間、私の我儘で新聞配達をさせてくださった両親に感謝をしています】
まず第1に、
5年生の時に母へお願いをして、母から「輝清、6年生になって1年間だけならお父さんが新聞配達をすることを許可するそうよ」っと、返事をいただきました。
第2に、
しかし、母は私よりも早起きしたり雨合羽や長靴の準備をしてくだっさったり、そして私の身を案じてくださいました。
また、私はお金が目的ではなかったので、初めてのお給金をそのまま母へ渡したのに暫くして母は私名義の郵便貯金通帳を作ってくださいました。
第3に、
そのことが、やがて私が22歳の誕生日をミクロネシアのトラック諸島で迎えるとともに、戦争の残骸や島民の生活等を撮影する旅費に充てることにつながりました。
第4に、
父は、オーストラリアの捕虜収容所で終戦を迎えて復員して、母とお見合い結婚をして、家業の写真館を継ぐために期待されて私は第一子として出生しました。
やがて、父が体験したその勇壮でも勇敢でもないただあるのは悲惨ん極まりないというその戦争のことを少しでも自分の目で確認したかったからでした。
つまり、私の初めての海外旅行の行き先は、父の戦争体験の影響でのカメラ一人旅でした。
第5に、
この小学校6年生の1年間の両親との約束こそが、その後の私のアイデンティティの源になりました。
第6に、
両親は私を家業を継がせるために束縛することは一切なく、高校を卒業するまでは私のやりたいことを見守る方針だったようでした。
今から22年前の母が今の私の年齢の67歳の時に自費出版をした「随筆集 私の散歩道」の掲載されている作品にもあるように、
両親には私のスポーツ漬けの青春に相当ヤキモキさせたようでした。
 
この写真を探して見つけて良かったです。母のアルバムに貼ってありました。実物の写真は横版でしたがFB用に縦版にUPしました。
この写真の後、中学校と高等学校の6年間は完全にスポーツ漬けにどっぷり浸かることになっていき、怪我と同居しながらの青春が過ぎていきました。
 
2016年(平成28年)12月23日(金曜日)冬至から2日目 27時記。 母89歳、私67歳。
 
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【追記/平成天皇84歳の御誕生日(2017年平成29年12月23日 土曜日 仏滅 祝日)に】
【私たち親子のアドベンチャー】
2014年(平成26年)12月30日(火曜日)午前9時10分にランドリーキャビネット組み立て説明書に鉛筆で走り書きでメモったものを、
4年後の本日(2017年平成29年12月23日sunday.仏滅.🎌平成天皇84歳御誕生日)に片付け中に何気なく見つけました。
捨てようと思いましたが、当時の私の想いなので書き留めることにしました。
「母(親)を看させていただける ということは、壮絶な試練を伴う冒険でもある。アドベンチャー。」
4年前といえば、私は64歳、私の母は86歳の頃でした。
 
母親を伴って2度 車椅子世界一周介助旅行を試みたのが8年前の2009年(平成21年)の1~2月&8月で、
私の母と同居して2年目の年で私は59~60歳&私の母は81~82歳の頃でしたが、
その冒険旅行✈️を思い出して重ね合わせたコメントの様に受け止めました。
 
例え病床&リハビリ車椅子生活であっても、今だに世界中をアドベンチャーしている様に思えてなりません。
 
私が30歳代後半から10年半、美祢市の民生児童委員を務めたことがありました。
自分の親よりも、他人の独居老人等の御世話をさせて頂きました。
今は、私自身が高齢になりましたが、せめて自分の母親だけは 母の意思を全うさせて頂きたいと思っています。
 
平成天皇の世界平和への祈りを思う時、私にとっての(私に課せられた)思いは、その一点にある様に思えてなりません。 …。
 
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追記:2018年(平成30年)12月23日sunday.天皇誕生日.
2018年(平成30年)5月28日monday.15:08.に、私の母が亡くなってあと5日で半年になります。