[373] 31年前のまちづくりから 今 介護介助を通しての世界平和構築システムづくりへ

投稿日時:2019年03月11日  カテゴリー:自分史  タグ:なし
末永 輝清 【写真は、31年前の山口県秋芳洞にて】(facebookより移行編集)
美祢青年会議所主催の市民シンポジウムでの基調講演並びにパネルディスカッションのパネラー等でお世話になりました。
当時の実行委員長並びにコーディネーターを務めさせていただいた末永輝清です。
当時の「アートの心、まちづくり」をテーマとした社会開発委員長の久保田正登さんに、現在モニュメント製作を依頼していますが、
その打合せ中に有村かおりさんの話になりましたので友達申請をさせていただきました。 2
【第3回 美祢 市民シンポジウムのポスター】1988年(昭和63年)8月20日(土曜日)於:美祢市民会館大ホール及び周辺広場(私39歳当時)
???? 松富かおり 懐かしい写真。。。。気がつくの遅れて申し訳ありません!どうぞよろしくお願いします。
今からチェックします!何しろちゃんとチェックできていないので。。。。1 管理する いいね! · 返信 · 11時間前
???? 末永 輝清 松富かおり さん  13年前に、私の長男と次男が美祢市の末永写真舘美祢本舘を継承してくれましたので、
私は山口市に 私の母と同居用に設計新築した末永写真舘山口新舘にいます。
戦前の女学校時代は陸上短距離選手としてその名を馳せていた私の母も、私たち夫婦と同居をする頃は車椅子生活になりかかっていました。
11年前から母と妻と同居を始め、最期の2年間は病院生活でしたが、
それまでの8年間は 嫁と姑のそれぞれの時間を大切にするためにそれぞれ交互に年間各2度のペースで異文化を訪ね交流に努めました。
今、「車椅子世界1周介助旅行」を2度 等約8年間の介助旅行を通してその価値を広める決意を記念して、
現在山口市の末永写真舘駐車場の一画にその記念モニュメントを建設中です。
その理由は、戦争を生き延びて戦後私たちを産み育て、今日の社会を築いた方々がその寿命を全うされる時期にありますが、
その恩に報いる最期の時だとずーっと危機感を覚えながら過ごして来たからです。
実は、この記念モニュメント建設の打ち合わせ中に有村かおりさんの話が出るまで 恥ずかしながら、
私は 有村かおりさんが結婚されて外国におられることさえ知りませんでしたが、風の便りで お元気だと聞いて嬉しくなりおともだち申請をさせていただいた次第です。
日本は超高齢社会とテレビ等で安易に(単なる単語として)単語の表面だけが飛び交っていますが、
被介護者(要介護者、要支援者)の方ばかり注目されて肝心な家族による介護者への関心の文化度があまりにも低い国だと思うことさえありました。
この「車椅子世界一周介助旅行記念」モニュメントを通して、何とか 昨年亡くなった母(享年92歳)があの世(お浄土)で浮かばれるように、
母親を看させていただくという介護介助世界を通しての世界平和構築システムづくりの一歩となれば、あの31年前のまちづくりシンポジュームも活きて来るように思っています。
自分の母親を伴って世界介助旅行をされるということは、それはいかなる壮大な自身の修行よりも心身共に複雑困難を極めることもあるでしょうが、
老いた(不自由になった)母親の寿命の背景の様々な人や社会や環境に見え隠れする世界が多次元的に感ぜられるようになり、
これまで人類がなしえなかった平和社会のシステムの構築が可能になると思っているからです。
有り難う御座います。
因みに【第2回 美祢 市市民シンポジウムのポスター】1984年(昭和59年)8月19日(日曜日)於:美祢市民会館2階 第会議室(私35歳当時)
因みに【第1回 美祢 市民シンポジウムのポスター】1983年(昭和58年)9月3日(土曜日)於:美祢市商工会館 第ホール(私34歳当時)