[341]私の母の死生観とキーパーソンの私
「私の母の死生観」と「私の母の晩年の寿命を決定する人(キーパーソン)」としての私の責任(私の在り方)
“My mother’s view of life and death”and My responsibility(My way of life) as “a person deciding the life expectancy of my mother’s later years (key person)”My way of life
【母親の死生観とキーパーソンの私】(facebookより移行) 2018年(平成30年)9月15日saturday.霧雨.
仕事としてではなく、自分の母親(統計的には父親が先に亡くなり母親が独居生活を強いられる傾向にある)を看る(介助 介護)ことは、
考えてする人もおられるでしょうが、私の場合は生まれながらにして授かったDNA運命のレールの上にあるものとして当然の如くといった意思と行動でした。
私の母親の親族の長男夫婦がそれぞれ自分の母親と同居している環境の中に居たことも無意識の内に私の脳に潜在して居たこともあったのかも知れません。
先日、facebook friendのM Aさんから本を書くことを勧められました。
既に自分史を家族に残すために数冊今年の8月の私の母の91歳の誕生日記念に仕上がるべく進めてはいたものの間に合いませんでした。
基本的には24年前に私の母が自費出版したB6版380頁(カラー写真50頁含)『随筆集 私の散歩道 末永敦子』に合わせる予定でしたが、
私の原稿が全て横書き故にA5版(210×148)300頁に晩年の私の母と10年間(最初の7~8年間の車椅子世界介助旅行記+2年間の入院生活)を中心とした内容で、
macで印刷原稿作成に着手したものの、
亡き母の葬儀、毎週の法要、49日の納骨、満中陰の発送、初盆、百ヶ日、等々法要に纏(まつ)わる凡(あら)ゆる出来ごとに対処するのに、
漸(ようや)く病院から何度も催促されていた私たち夫婦のそれぞれ入院手術日を決めるまでに漕ぎ着けました。
このコーナーの6-2辺りから母親との世界介助旅行に関する事を思いつくまま断片的ではありますが少し書いてみました。
6-1【2年前の後数時間後、2階自室ベランダ手摺り内側の11個のプランタンに突然一気にピンク色の花を群集して咲き誇ったオキザリス】
母親の寿命と重ね合わせて3界(大自然界、大宇宙界、大人類界)へ祈る切っ掛けとなったオキザリスという花との出会い。
この夏にリニューアル工事と共にその2階のオキザリスは地階の駐車場脇のアスファルト上に設置した花壇へ移動しました。
この写真のオキザリスは10数年前からこのプランタン生活ですが、今年も突然ですが一気に芽を出しました。
地中生活の方が長いオキザリス。
まるで枯れた土地というか、砂漠に突然というか、
数時間で数センチも芽を出す南アフリカ????????????産のオキザリス。
2年前の今夜は、私の母が掛かりつけ医から総合病院へ廻されて緊急入院と共に延命措置を施す事態になって真夜中のベランダへ出て月に照らされていた壮大なオキザリス軍団にどれだけ生命力の強さを感じさせて勇気付けられたか計り知れませんでした。
6-2【両親の死生観】
親はその死生観を、「誰に」「いつなんどきに」「その意思を伝える」というか「伝えたい」ものなのだろうか。
子どもは、親から いつなんどきに その意思を 「聞く器量」が備わっているのだろうか。
私の両親は、戦争を生き延びた体験は共通しているがその自分の寿命に対する意思は全く異なっていました。
私の父は私にこう(次のように)話していました。
それは、「自分の晩年にもしもの事があって入院しなければならない 若しくは手術を受けなければならない事態なれば、絶食して自殺したいと。」
一方、私の母は、その正反対の死生観でした。
自分の晩年にもしも上記のような状況になった場合には、
「輝清(私のこと)が、私(母親)の為に良いと信じることであれば、どんな手術でも受けたい。」
しかし、伝えたい両親 程の生死観を 受け入(容れる)程の、「人生の器量」が備わっているかが重要に思います。
受け止める方の私にそのまだ元気な両親からの言葉を聞きとめる「人生の器量」を持っていると期待と共に既に備わっていると信じたい心境があると考えています。
6-3【母親との同居生活は、天(神)から与えられた崇高な時でした】
私の場合は、世に言う「親を看た、してあげた」ではありませんでした。
「母親を看させていただく(看させていただける)」という崇高なことを任せられている、その為に自分はこの世に生まれて来たということが幼い頃から一貫して私の脳に染み込んで産まれて来たような気がします。
私の父が亡くなって、18年目を間も無く迎えます。
当時7年間独居生活を送っていた母親。
私の従兄弟夫婦の勧めが切っ掛けで私の妻との3人で同居を始めました。
嫁と姑との時間を大事にする為に、翌年から嫁と姑との交互にそれぞれ年間2度ずつ異文化を訪ねることにしました。
病院や施設の職員さんたちの勤務時間シフト制とは全く異なる24時間行動を共にする海外介助旅行。
これこそが、高齢社会の真実というか現実を知る切っ掛けとなりました。
6-4【車椅子生活になった母親との世界一周介助旅行】
それまでの母親は、どのポケットにもバファリン等 頭痛剤が入っていました。
湿布も販売する程の量が部屋にありました。
薬の数も、朝食時は11種類ありました。
中には大き過ぎて割らないと飲めないもの(錠剤)もありました。
それだけのことをこなすには、朝食だけでも大変な作業です。
医師によると、処方箋は書くけれど形状等は薬剤師に聞いてくださいとの事でした。
一生懸命母親のことを話しても、パソコンの方を見ながら、私の質問だけに答えたら良いと言われて遮(さえぎ)られました。
結論的に、数ヶ月後「飲まないでよかったもの(薬)を飲んでいたのね」っと言って笑っておられました。
御免なさい とは思わない特殊な世界がまだあるのが現実です。
人の心を大切にする為には、その人のことを分かり合える感受性 人間性をも医術と共に享受出来るDNA土壌を前提とした感性を持っておられる事が必要になるように感じました。
病院や施設だと、沢山の入院や入所者を看る為に、いちいち丁寧にしていたらすぐに24時間が経ってしまいます。
順って、本人の心身の能力の低下が急速に進ん来ます。
現在の医療体制は、介護度が高い程高額なお金が各病院や施設へ支給されるからさらにその老化のスピードが加速されてしまいます。
つまり、日本の医療現状は寝たきり状況に早くなってもらった方が病院や施設に従事される人員を増加させなくて高額な税金がその病院や施設へ支給される仕組みになっています。
親を看ることの無い環境下で育った人や、またそのようなDNAを持った人が、
更に現場を知らないで法律を作ったりする社会になってしまいました。
6-5【24時間行動を共に出来る世界介助旅行こそが崇高な修行のように思えてなりません】
掛かりつけ医師やその薬剤師との長い葛藤期間。
私たち夫婦と同居を始めて朝の薬の11種類が4種類にする事で、一気に私の母の健康状態の低下速度を和らげる事が出来たように思えました。
その代わり、私たち夫婦の方が私の母より先にあの世に行く程の危機感さえ覚える事は覚悟しなければならないこの世の仕組みを理解する必要を感じました。
6-6【究極的には、「家族の唯一の1人」が晩年の母親のそばに居られる事が 人類における最も地味ですが最も崇高な行為 修行のように感じました】
例えば、五つ星ホテルが高齢者や身障者にとっては必ずしも当てはまらない現実を放置されている旅行業界や行政の責任が議論されない現実社会が未だにあるくらいですから、
尚更のこと介助者 看護者における感性の高さが求められるように思えることが超高齢社会における介助 看護の障壁となっているといえます。
末永 輝清·2018年9月17日月曜日