#死ぬまでにっておきたい人

(末永 輝清·2019年6月21日金曜日facebookより移行)

 
#photography: 【半世紀以上昔の写真と共に】
モデル/吉田恵子さん(奈良県出身の模様)
撮影制作/末永輝清(日本写真専門学校学生時代)
6月17日Monday24時.2019年(令和元年)みなずき(水無月)季夏・晩夏June Juni
その間の巨大な時空間は、激動の30年間でした。
30数年前は秒刻みで働いていました。従って、そのSI….KA……さんとは会うことも、話すことも物理的に滅多に出来ない時代でした。
30年前の最後の夜の電話での会話以来、全くの音信不通の30年が経過しました。生きておられるのかさえ知る由もありませんでした。
その間、中学校の柔道部(私はキャプテンをさせて頂きました)の同級生の内の2人が、そして市体育大会の陸上競技200m x4のリレーメンバー(私はみんなの意見でアンカーへ指名されました)の4人の内半数の2人も既にあの世へ行ってしまう程の年齢になりました。
すぐ死ぬ歳になったからではなく 人はすぐ死ぬんだから、誰に遠慮する事なく、思い残す事なく、楽しく暮らそうと考えるようになった矢先でした。
彼女の還暦誕生日の夕刻に30年振りに、その新築された豪邸から響き渡るようなあの懐かしい声で御礼の電話がありました。
彼女も花を受け取ってから私が仕事を終える時間帯を待ってからその電話を掛ける迄の約4時間は、その30年間の思い&絆を紐解く時空間移動が必要だったようにも思われました。
しかも、知り合ってそして涙と無理矢理の笑顔での退院日以降は、滅多に会えなかったし、結婚されるという風の便り以降は全くの音信不通になりました。
空白の30数年前の最後の電話での話の続きを13分間もすることが出来ました。
30年前の私には信じられない程の長時間でした。
その人は、私が死ぬ迄に再会したい人の中の1人でした。
マザコン等々と揶揄(やゆ)もされたりもしましたが、超高齢社会という単語や介護介助という単語が軽い気持ちでメディア等によって大量に無造作に安易にそしてある時は卑下(ひげ)されるかの如く使用される度に、
この日陰の部分に必死に生きる人たちのことを、陽の当たる部分に生きる人たちの一部(出来れば世に言うリ-ダ-部類の人)でも分かり合える心が芽生えれば、この世から紛争や戦争が飛躍的に減少するでしょう。
未だ未だ私が死んでからでないと、現在の人類や #今の日本文化ではとても理解されることは難しいことではありますが
いつの日か、#私の母の死が浮かばれる時代(被介護介助者を看ている介護介助者の心が解り合える社会)が訪れる事を夢見ています。
今、昨年に続き #夜行高速バス で東京へ向かっています。
萩から乗車されたという75歳の隣の席の女性(どう見ても50歳に見える)と、最後の停車地の宮島サービスエリア迄の3時間位をずーっと話し相手をして下さいました。
そんな会話の中で、30年後の今月に還暦60歳を迎えられたSI&KAさんや50年後に古稀70歳を迎えられたと思われる吉田恵子さん(未だ存在を確認出来ていませんが)への年一回の誕生日の花を贈る事への女性の意見を聞くことが出来ました。
戦前の女学生時代陸上競技短距離選手としてその名を馳せていた私の母も10年前の81歳の頃に車椅子生活になりました。
その事を切っ掛けに この地で同居を始めた私の母と共に親子2人で世界一周介助旅行を含めた8年間の介助旅行記等並びに入院記録等の記念誌の編纂が2年間延び延びになっています。
この夏の生きていたら92歳の誕生日に間に合わないとしても 令和元年中には仕上げたいと新たな決意をしました。
かれこれ2年以上探していますがミスマッチの繰り返しです。
Facebook の中のmy note欄に約300項目コラム風にランダムに書いているものを中心にして、Blog欄やFacebook のコメント欄やメッセージ欄等に埋もれている長文等(全て横書き)をプリントアウトして文脈を整理してみようと思っています。
昨年までは、その作業かつ編集アドバイザー能力者を探していましたので到底無理な人&印刷&製本等の(所)探しという事に気付いた次第です。
ある程度の完成工程の めどがたてば本格的にその #記念モニュメントの制作意図を本(書籍)として纏(まと)めて(あくまで販売用ではなく自分史として真実を数冊に)認(したた)める事から始めたいと考えています。
この2年間出版社関係を山口県内くまなく、そしてネットでは全国エリアであたりましたが私に合う人との出会いがありませんでした。
過去には、偶々(たまたま)電話を受けられた技術者(若い女性)での印象が良くても、引き継がれた営業マン(年配の男性)と一緒に来られて彼が私のパソコンのディスクトップの中から編集用のソフトを見つけて、若い女性技術者と折角打合せをしていた事が振り出しになりそのままになったり、
私のFacebook friend(これ迄の出版関係者はこの初期動作が出来ない人ばかりでした)になって頂いて、友達マークにしてあるmy note欄を読んでから私に編集提案が出来る女性ライター(例えばですが、男性は一般的な歌舞伎役者等
の様に結婚する意志がないのに子供を産ませて、後年異なる人と結婚する人がいたり、ましてやその日本文化継承名目で税金優遇措置内の職業に居座る事で日本文化の品位の低下を感じるのは私だけではない様に感じます。
それにも増してその女性の敵とも思える人に群がる女性の多さに違和感を感じる私の異性感&恋愛観を共有出来る人が少ない様な気がするので、出来れば私と同じ恋愛観を持たれる女性ライターの方が編集意図が明確になり読み易
い文章にする事が可能な様に最近は感じるようになりました。)を最近は探しています。
ので、諦める事なく これから他県へも その人材出逢いを求めてみようと思っています。
車椅子生活になった母親を伴って世界一周介助旅行を約8年間継続出来た その被介助者(母親)と共に旅行する介助者(母親の息子)である私という人物の女性観もある意味大切な要素である様な気がして来たからです。
#母敦子一周忌並びに祖父清弌五十回忌の法要」が3週間前に粛々と進行しました。
「非介護介助者の心(笑顔)に寄り添っている介護介助者(の心)に共感し得る(寄り添う)社会システム構築の中に世界平和の礎が育つ」
規模や制作意図は異なっても世界三大瀑布を始めローマのスペイン広場や本場マドリードのスペイン広場等々へ、
車椅子の母と そしてある時は妻と そしてある時は家族と共に50数ヶ国の異文化訪問交流の思い出を、
新たな絵になる撮影並びにパワースポットとして永く憩いの場として親しまれることを願っています。
命(愛、作品)の生成(創作)生活(工程)や人(絆)の健康寿命をこの「モニュメントベルサイユ輝」に込めています。
2019年(令和元年)6月11日TUESDAY付でモニュメントにこの制作意図を書こうと思っています。
末永輝清(末永写真舘三代目舘主/古稀70歳)
14年前に私の母との同居用に設計した末永写真舘山口新舘をこの地に造成新築しました。
ハワイに私の母と永住したいと思い、その資料収集しながら末永家の長男の立場では余りにも問題点が多過ぎてその生計自体にも疑問が付きまといましたので、一転して日本国内に的を絞り縁があったこの地に決めました。
10年前に従兄弟(私の母の7人兄妹の中の3姉妹の長女の長男久保幸夫さん)夫婦の勧めもあり私の母と末永写真舘山口新舘で同居する事を切っ掛けに私の妻も美祢本舘からやって来て母と妻と私と3人で同居を始めた頃から自分自身の #終活を始め、今 古稀70歳を過ぎて自分自身の #寿命を身近に感じています
そんな中、
一昨年と昨年、男性3人(何故か私より #1歳年上)それぞれ死ぬ迄に会っておこうと言われ山口市迄来られました。
 
大島純男(日本写真専門学校営業写真学科同級生/後に同志社大学神学部を卒業されて牧師になられ定年退職後 #新発見論文や講演活動中)さんは実に50年振りにわざわざ名古屋から山口市迄会いに来られました。その際、写真スタジオを見たいと言われ #遺影用の写真撮影を注文され#仕上がりを凄く喜んで下さいました
私の #母の看病で数年間も延び延びでしたが、彼と引き合わす為の 母 自らの寿命が来たようにも思えました。
 
北村喜久雄(日本写真専門学校営業写真学科同級生)さんは30年振りにわざわざ兵庫県明石市から車で山口市迄会いに来て下さいました。#卒業後 の沢山の思い出は書ききれません。
 
福永秀夫(慶應義塾大学通信教育学部夏季スクーリング同級生/彼の #婚礼写真 を当時の勤務先であった小野田市迄出張撮影やその後出産された娘さんの #成人振袖撮影 を下関市から美祢市の末永写真舘迄来られて私の息子が撮影等)さんは10年振りに下関市から #家族連れ で山口市迄会いに来て下さいました。
 
振り返ると、それぞれ #私と共通するものを感じます
 
#感無量です。それぞれ #再会を約束しましたが、もしその当時が最後になったとしても #悔いはありません
 
ところで、 ………… 。
 
#半世紀昔の想い出の中に居る奈良の吉田恵子さん #生きておられたら古稀70歳位(住所も生年月日も知らない。縁あって大阪で3度出会った人。増して彼女の身の上話も知らない。)
 
#50年振りの再会を果たせるのだろうか。当時の住所が奈良ということと氏名しか解らないけれど、私が死ぬ迄に再会したいと念じています。
 
彼女の顔写真は私が撮影したモノクロ写真(私が写真舘に半世紀飾っているものと同じ全紙パネル貼り写真をモデル代替りに渡してあります)を私のhome pageやFacebookやInstagramへ掲載してあります。
 
彼女は、大阪での学生時代の卒業間近に3度お会いした人で唯一デート(1度)をした人です。
 
私は家業の末永写真舘を継ぐ為に、戦後南方戦線より復員した父と高等女学校時代下関市彦島の軍需工場で命懸けで働いた母が、
 
御見合い結婚をしてその第一子として期待されて望まれてこの世に生を受けました。
 
従って、私は家業を継ぐ為に日本で唯一営業写真学科がある日本写真専門学校営業写真学科へ進学した為、絶対恋愛をしない決意で過酷な青春時代を過ごしました。
 
それは、もし私が好きになった人が1人娘や三姉妹の長女だったら養子に行く可能性を感じたからに他ありません。
 
大阪での彼女との3度の出会い。
それは…………
 
【最初は】、日本写真専門学校営業写真科同級生黒田かずみさん(現在兵庫県で家業を継いでおられ、今から4年4ヶ月前頃からmail friend)が心斎橋で彼女をスカウトして学校の大型スタジオで一緒に撮影しないかと誘われた時。結果的に私の卒業作品の一つになりましたが。この時は撮影に必死で彼女との会話の記憶が無い程です。
 
【2度目は】、卒業前の頃、私のすぐ下のまだ高校生の弟が各駅停車列車で大阪阿倍野の私の下宿に来た日でした。
 
弟の目の前で事前に同級生の黒田さんと彼女との約束通りモデル代としての全紙パネル貼りモノクロ写真を下宿の玄関真上の私の部屋でその裏に私のサインをしてお渡しした時。下宿主人の三好文子(保険の外交員もしておられた様子で2人の子供姉弟と自分の妹を同居人として賄(まかなっておられた)から一階から大声で矢のような催促で1分以内で彼女と2人で下宿の部屋を出て天王寺駅へ向かいました。
 
(下宿先の御主人は見たことがなかったが、その25年後 私の長男が大阪芸大合格後家族5人でその下宿先へ行く途中に天王寺駅で電車を乗り換える際にその下宿を訪ねた際には当時の三好家の家族はおられなくて御主人らしき方1人がおられました。奥さんの住所も解らないようで、折角の御土産もその御主人が食べたようです。)
 
この時は2人で並んでJR天王寺駅から歩いて数分の位置する阿倍野区の私の下宿を往復徒歩するなかで何故か無意識にデートの約束をしてしまいました。
 
【3度目は】、天王寺駅で落ち合いどこに行くっと尋ねた際「梅田」っと彼女が応えての大阪学生時代初めての唯一のデートをした人です。
 
このデートの様子は私のブログにあります。
 
自分史を纏(まと)めるに当たって、#女性ライターを探しています
#ごめんね」半世紀前の大阪環状線電車内で吊り輪にも掴(つか)まらず発した彼女の最後の言葉が、
 
ずっと脳裏に響きます。
 
#元気で暮らしておられれば良いのですが
 
双方が健康寿命の内に再会出来る運命になっているものだろうか。
 
自分の運命の魅力を探求する旅は続いているようです。
 
山口市大内御堀六丁目3番1号〠753-0214
(仁保川沿/水道局隣/山口県立山口中央高校並び)
末永写真舘(山口新舘/新築14年目)
三代目館主 末永輝清(古稀70歳)
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山口県美祢市(みねし)大嶺町吉則町上1区(美祢駅前通り)
末永写真舘 美祢本館等は主に独身の長男と次男たちが担当しています。
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【HP更新しました】
http://suenaga-photo.com
 
【BLOG更新しました】
http://suenaga-photo.com/blog/
 
【twitterは操作の練習中です】
https://twitter.com/terukiyosuenaga
 
#SUENAGA #photography #studio/ #Yamaguchi-city JAPAN
 
御予約 御問合せは、ホームページ欄からも出来ます。
私から確認の電話が無い場合は上記に御連絡頂ければ幸いです。
 
#予約制写真スタジオ(職業分類/営業写真舘)
 
#被介護介助者に寄り添っている介護介助者の心に寄り添う社会の構築(晩年のライフワーク)
#究極の修行
 
#失われた10年間の意義
#発見の連続の10年間の意義
 
#地味で悲惨な10年間のその後
#異次元の世界が見えてくる瞬間
 
#10年と半年間の民生児童委員体験とは(他人の母親を看させていただく)
#10年間の自分の母親の介護介助体験とは(自分の母親を看させていただく)
 
#私にとっての文化
#人それぞれのDNA社会
 
#車椅子生活になった母親と世界一周介助旅行
 
#初めては #最後だから
 
#不思議で魅力的な私のDNA運命
 
#一度きりの人生
 
#すぐ死ぬのだから誰に遠慮せずに楽しく暮らそうよ
 
#自分の生き方が好き
 
#出会ってくれた人に有り難う
 
#私のDNAが信じる絆
 
#アミューズメント&テーマパークのような末永写真舘山口支店