〜〜〜〜〜〜〜【 #崇高な縁に感謝していますI appreciate the sublime edge 】〜〜〜〜〜〜〜
【 #見えない半世紀間と見えない30年間の2人の姿を観ている思い】
10年前の2009年(平成21年)7月27日mondayに拉致被害者、曽我ひとみさん(50)の夫のチャールズ・ジェンキンスさん(69)が務めておられる新潟県佐渡市の土産物店で接客の仕事をしておられるところで
彼と一緒に義母と私の妻と私と4人写りの記念写真をその時の「義母 久保幸子(85歳)2度目の日本横断旅行写真集」に収めてあり、時折り眺めています。
(各種の写真集制作は私の仕事ですから、昔の写真や近年のデジタル写真がUSB等に収まったままになっている貴重な写真データをご持参されれば、86頁迄の写真集に企画 編集 修整 印刷 製本して家族や御自分の財産になります。)
その佐渡伝説資料館で球根を購入しました。
そして9年目の今年、2年連続して綺麗な百合の花を見事に咲かせました。
写真舘玄関前の広い駐車場のアスファルトからの太陽光の照り返しがきついので、土を大量に購入してアスファルトの上に芝生を植えたり、花壇を造ったり、大型の鉢を設置したり水路側のフェンスに薔薇を這わせたりと、この14年間色々試みました。
昨年から1年間掛けて、古稀70歳を迎えた今、その駐車場&ロケーションフォト庭園を備えた私の世界観(大宇宙界&大自然界&大人間界&寿命と愛との対峙等)を表現する時空間&崇高な修行(介護介助)が輝きを放つパワースポットとして、ようやく その形が見えつつあります。
この佐渡ヶ島の綺麗な百合の花の群集の生命力が、私の古稀の歳にそばに居てくれるだけでどれだけ有り難いことか。
この綺麗な百合の花の姿は、また直ぐに地中へ戻るのでしょうが、私のDNAに縁があった人のDNA姿に重ね合わせて見えない姿(半世紀前の人と30年前の人)を観てきた時空間を感じて愛おしくも思えます。
〜〜〜〜〜〜〜【 #崇高な縁に感謝していますI appreciate the sublime edge 】〜〜〜〜〜〜〜
【#32年前は38歳の私が生涯初めて28歳の誕生日花を贈った人に出会った日1987昭和62年】
Photography: #PortLouis in Mauritius(マスカレン諸島inインド洋)
#モーリシャス????????から空路、南アフリカヨハネスブルグ、ケープタウンを回るなかで ずっと手荷物で大事に日本迄持ち帰ったこの模型船。
これを2階の御土産&旅行記念品棚の上に飾っていましたが、その奥の資料室の片付けで何度もその前を通過する際、これからは御客様にも目に触れる様に 1階の写真舘へ降ろしました。
1年間私のセクレタリーを務めてくれた荒山君()が自分は南アフリカ迄は行けないので買ってきて欲しいと頼まれたので2隻購入して彼に好きな方を選ばせました。
それは、今から32年前の1987年(昭和62年)社団法人 日本青年会議所 副委員長時代で、私が38歳頃でした。
この年の任期終盤、立川青年会議所所属の鈴木茂委員長より何度も次年度日本青年会議所の委員長就任依頼の電話を受けましたが、私は故郷の発展に寄与する為に出向して学ぶ決意でしたので涙の決断をした年でもありました。
その翌年、美祢市と美祢郡の合併を視野に入れた3回目の美祢地域の街づくりにあたる「#アートの心街づくり山sun山sunフェスタ」を開催する事が出来ました。
しかし、どの家庭や団体や地域や国家等にもみられるように、我が団体においても御多分に洩(も)れず十人十色。
もしも、これをしないで日本青年会議所委員長就任していたら国際的な地球システム構築が出来ていたかも知れません。
鈴木委員長は、私の性格DNAを予知しておられたもかもしれません。私にそれを期待していた様でしたから。
人生のターニングポイントでした。
その数年前のモントリオール世界大会での分科会で、日本青年会議所開発室経営開発委員会セミナーのスピーカーを担当してその終了後に会場でセミナーを聴いておられた次年度日本青年会議所野津喬会頭より一緒に呑もうと誘われた際も、夜の最終フライトでナイヤガラフォール経由でニューヨークを訪ねることに気が回っていた為にむげに断ってしまったこともありました。
人生の沢山の出会いは、DNAのいたずらのようにも感じられます。
縁があって、DNAが無意識に受け入れる時が、私の場合は20年おきに(20歳頃、40歳頃、還暦60歳頃)巡ってきたように思い返しています。
今その半世紀前に出会った想い出の人、30年前に出会った想い出の人の人生の機微と対峙しています。
それは、私の母そして義母との壮絶な介護 介助 リハビリ等々の際に、私を支えてくれた私の家族(私の妻と独身三人息子)と同じほどの私の心の支えだったからです。
#良い想い出は、#私のDNAに写真のように鮮明に存在していて、#まるで太陽と月のように毎日燦然(さんぜん)と輝き続けていたからです。
#綺麗で正直で素直な礼節は、#母親を看させて頂くというDNAとともに、#崇高な修行を感じざるを得ません。
#崇高な縁に感謝しています。
2019年(令和元年)6月23日sunday 25時.
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【 #私の生涯で2人目の人に贈る花を思う 】
半世紀振りの再会は出来るのだろうか。
半世紀間消息が分からない人。
吉田恵子さんという名前だけしか分からない人。
もし消息が判り、 元気に暮らしておられる事が解れば、
花を贈る事が可能であれば、
再会が可能であれば、
そして今、その人に初めて贈る花のことを考えています。
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贈るという私のDNAには、
先程Facebookへ掲載した百合の花のように、
自宅で10年間過ごした(8年目の昨年初めて花を咲かせました)佐渡ヶ島の百合の球根付きの花を贈る事が出来たら、
贈る方の自己満足ではありますが、思い出の絆がより一層輝く様な気がしてきました。
未だ未だ、 花瓶等持ち運びや、見た目の事等考えなければならない事もあるけれども。
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50年前、大阪での学生時代。
家業を継ぐ為に学んでいるのに、
好きになった人がもしも一人娘や姉妹の長女だったら養子にいく可能性があり、
それら(人を好きになる&恋愛)を避けるための精神的にも過酷な青春を過ごしました。
そして、ようやく卒業迄漕ぎ着けたのに その卒業間近にして気が緩んだのか、唯一一度デートしたその唯一の人が彼女でした。
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そして、音信不通の半世紀間経過して お互いに古稀70歳を過ぎた年齢になっています。
彼女を心斎橋で卒業制作作品用のモデルとしてスカウトした同級生で、今も尚お孫さんもおられる現役のphotographerとして兵庫県の写真館の娘さん2代目館主Ka.Kuさんに先日メールで聞けば、
彼女は私達より年上かもしれないという。
生きていても、お互いに今日死ぬ程の健康寿命状態にある…。
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何だか、私のDNAにはその(最初に書いた)様な花の贈りかたの方が自然な様な気がしてきました。
見た目の派手さや豪華さや珍しさ等で、心&思い&誠意を伝える事に対して、
50年前に彼女と出会った頃の 、親から仕送りされて学んでいた学生時代の本来の私らしさが 薄れていく様な気がしてきました。
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私が38歳の頃の1987年(昭和62年)に生涯初めて花を贈った32年前に出会った当時28歳の頃のSi.Kaさんとは全く異なる形&意味&思い&内容の花の方が、
その20年間遡った つまり今から半世紀前の私が学生時代に出会った吉田恵子さんには似合うと思うようになりました。
…
かつて、 ..(詳しくはブログへ)…
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〜(以下は2年前2017年平成29年4月24日投稿のfacebookより移行)〜
【佐渡島で買い求めた百合が咲きました】〈義母と妻と私〉
昔、妻とその母親を伴って佐渡島を訪れた際にジェンキンスさん(北朝鮮で同じく拉致されていた日本人女性と結婚)と一緒に記念撮影をしたりして、帰りにその観光物産店で買い求めたものです。
この時の行程は、山口県~伊豆下田~東京~八丈島~東京~軽井沢~新潟~佐渡島~東京~倉敷~山口県でした。
一昨年の2015年(平成27年)4月15日wednesdayに、その義母は91歳でその生涯を閉じました。
思えば、義父が健在の頃は、
家族5人と義父母の7人で、数年前から角島大橋が完成して一躍脚光を浴びていますが、その近くの日本海側は西長門リゾートホテルへ烏賊などの新鮮な魚を食べに、たま 川棚温泉の旅館や、萩の楽天地ホテルなどなどへ、
瀬戸内海側は秋穂の古い日本庭園を眺めながら海老のフルコースをと言っても3人の幼い子供は覚えていないかもしれませんが、また 室積海水浴場などによくと言っても商業でお店を経営しているので、何時も時間が空き次第急遽なのですがドライブしてきました。
義父が亡くなってからは、
私が経営する会社の社員とその家族旅行でバスを借り切って長崎ハウステンボスや阿蘇草千里や宮崎県 高千穂峡、博多天神 西鉄ホテルなどへ誘って一緒に旅行をしました。
1997年(平成9年)8月1日~4泊5日でドライブ日本横断旅行が思い出に残っています。
当時大学2年生の長男と48歳だった私と2人が交代でスバルインプレッサーWRXを運転して当時74歳の義母と私の妻を後部座席に乗せて紀伊半島 和歌山県勝浦温泉ホテル浦島~那智の滝~三重県 伊勢神宮~滋賀県 琵琶湖畔 長浜太閤温泉~福井県 東尋坊~石川県 輪島~永平寺などを廻りました。
この新潟県 佐渡島の百合の写真は、2009年(平成21年)7月23日~28日の5泊6日の2度目の日本横断旅行を私の妻と義母とで新幹線、特急電車、フェリー、飛行機、新幹線、タクシー、水上ジェット船
などで廻りました。
主な行程は、山口県~静岡県 伊豆半島 下田~東京都 八丈島~長野県 軽井沢~新潟県 佐渡島~岡山県 倉敷など~山口県でした。
2011年(平成23年生)5月4~5日、長崎県五島列島福江島& JR博多シティ。当時の義母は87歳で私は40歳、次男34歳の時でした。この時な86頁に及ぶ製本された写真集は、義母の10月23日の88歳誕生日 米寿記念として御祝いにプレゼントしました。
義母が現在の私の母と同じ年の89歳だった今から5年前の頃の2012年(平成24年)12月25日(火)~2013年(平成25年)5月15日(水)の142日間の山口リハビリテーション病院頑張り記と題する写真集は、優秀なMa.Kubo..作業療法士、Kazu….Matuu..理学療法士の皆さんのお陰で階段を13段まで上れるようになったものの、
病院側の都合で 国からの補助金の期限などの理由によって一旦退院つまり自宅へ戻るか、また転院する事になりました。
つまり次の受け入れ先を探して頂きたかったのですが、当時の地域連携センターは未だ人材が育ってなくて機能しておらず、結果的に 私達夫婦が色々廻ることになり、慣れないことでもあり情報がないため私達夫婦は随分苦心をしました。
この2012年(平成24年)と2013年(平成25年)の期間は、奇しくも私が国際関係学部のある大学で学び変えるために編入試験を受けて若い学生たちと共に学んだ頃と重なった時期でした。
その後、新しくできた施設に強引に勧められ、またそこでも色んな目にあって随分心身を鍛えられました。介護の世界の側面を知る事になってしまいました。
義母は2年間で、一気に衰弱と病気発見が遅れたりの繰り返しで亡くなりました。
長女の夫としての務めは果たしたつもりではありますが、結果的にもっと親切な情報が欲しかったことについては、悔いが残ることになりました。
その2014年(平成26年)と2015年(平成27年)は、奇しくも学部を卒業して、大学院を受験して高齢者の旅行に関する研究と重なった時期でもありました。
????この佐渡島の百合の写真は、義母が当時85歳、私が還暦の年に佐渡島を訪ねた際に購入した球根ですが、それから継続して生き延びて8年目に綺麗に咲いたものです。
私は、妻の両親も、私の両親と同じように共に尊敬していた人でした。
この百合も明日がピークで、また来年迄土の中で過ごす事になります。
【HP更新しました】 http://suenaga-photo.com
この度、私こと末永輝清(68歳)は 10年振りにHPをリニューアルしました♪