[353]半世紀間の膨大な量の作品を整理中 Organizing a huge amount of works for half a century

投稿日時:2018年12月13日  タグ:なし
【半世紀間の膨大な量の作品を整理中です】(2018年平成30年12月12日tuesdayのfacebookより移行)
一昨日の2018年(平成30年)12月10日monday夕刻から半世紀振りに日本写真専門学校の友達S.Oさんとの再会を果たしました。
半世紀前、
スポーツ漬けだった高校時代迄の思い出を胸に 故郷山口県美祢市(みねし)を後にしました。
美祢線の美祢駅(当時はまだ吉則駅名だったかも知れません)の改札口を通過する際に、
後ろから「(あっ 間に合った) “輝ちゃん!”」と響き渡る大きな声で呼び止められました。
振り向きざまに、私の手に何か紙のようなものを握らされました。
私の母の7人兄妹の内の3姉妹の長女 久保清子伯母さんでした。
「頑張るんよ。健康に気を付けるんよ(これで好きなものを食べてね)」耳元で囁(ささや)くような声でした。
列車に乗って暫くして 握りしめていた手を広げて見ると御札(紙幣)でした。
山口県立大嶺高等学校の麓で美祢線上り沿線沿いにある自宅から手を休めて慌(あわ)てて走って来られた様子が、
その家のそばを列車が通過する際に私の脳裏を霞(かす)めました。
私は、産まれる前から末永写真舘三代目という看板を背負って、
家業を継ぐ為に期待されて その第一子 長男としてこの世に生まれてきました。
私は、私の母の24年前に自費出版された『随筆集 私の散歩道 末永敦子』の中からも垣間見れるように、
大家族の長男とお見合い結婚をして当事の美祢市の中心街に位置する隣街の伊佐町の末永写真館に嫁ぎ、
私が産まれる前から苦労をものともせずに悠然(ゆうぜん)と実家の母(私の母方の祖母)しのぶに諭されながら、
奇跡的に私の命を守って此の世に送り出して下さいました(私は自分の両親の事を呼び捨てには出来ません)。
先程の清子伯母さんは、私の母の実家の小方家の長女のとして亡き祖母しのぶさんの思いを私に伝えたのかもしれません。
さて、
日本国内で、営業写真学科のある唯一の学校が大阪にある日本写真専門学校でした。
卒業後、
田舎に帰省して父を手伝いながら当時通学可能な距離で夜間に経営を学べる唯一の大学が北九州市にありその八幡大学へ通学しました。
私が小学生の頃 既(すで)に私の母方の祖父小方圭一、祖母しのぶは亡くなっていて、
私が帰省してから 私の父方の祖父 末永清弌、祖母フデ、伯母の久保清子さんが亡くなりました。
特に清子伯母さんの子供達(私の従兄姉2人)が帰省するまで、
夜遅くまでお通夜の準備等特に箪笥(たんす)の移動等指示に従ってしました。
人の巡り合わせを感じながら、悲しみを感じながら。
葬儀写真も既に近くに位置する当末永写真館で撮影されて準備しておられて仏様の仏壇のそばに丁寧に置いてありました。
私の義理の両親久保治男、幸子、私の両親末永劔、敦子…身内だけでもそしてお世話になった方や私の同級生…数え切れないほどの人をお見送りしてきました。
先程の友達S.Oさんは後に同志社大学神学部を卒業されて牧師の道を歩かれ引退後でないと出来ない研究論文を書いて講演をされたりしておられます。
私も彼と同様に、
高校の同級生の友達真瀬義雄慶應ボーイ君の勧めもあって通信教育のスクーリング等で学び慶應義塾大学法学部で高鳥正夫教授から卒業論文指導を受けたり、
東大生だった従兄弟の末永繁一君のお陰で東京大学法学部の伊藤正己教授のアメリカ法等の講義を受けたり、
九州国際大学大学院企業政策科で中野洋一教授の元で修士論文を書き上げて卒業したりと、
働きながら、母や義母を私の妻と看ながら必要に応じて学んできました。
私の母とのことを山口新聞の東流西流欄に9回シリーズで掲載中の半年前に私の母は亡くなり、結果的に私の母と暮らした晩年の10年間の内容になりました。
あっという間の半世紀。
一昨日に彼と再会した翌朝は美祢ロータリークラブ主催の卒業生を励ます会へ出席しましたので彼の湯田温泉駅での見送りは出来ませんでした。
しかし、彼と再会した御蔭か御利益(ごりやく)なのか、
これまで思い続けていた事が2日続けて新たな展開が予測される事が起きました。
1つは、卒業生を励ます会の際、私の隣の席のロータリアンから山口新聞の東流西流欄に書かれた事をラジオ番組で話してみませんか?とのお誘いを受けました。
2つ目の今日の朝は、13年目にして新たなる仕事に関する話がありました。
もし実現すれば、私の母も漸く(ようやく)浮かばれるように思います。