[354]この10年間 For the last 10 years

投稿日時:2018年12月16日  カテゴリー:自分史  タグ:なし
1)
【苦しいけれど楽しかったこの10年間。It was painful but fun for the past ten years.】
私の母は行年92歳でした。My mother was 92 years old at a time.
私の父は享年80歳でした。My father was 80 years old at age.
私は私の両親の生き方を尊敬する人生でした。I respected my parents’ way of living.
2)
今年は失われた10年間の最後の年ともいえる、
今年は新発見の10年間の最後の年ともいえる、
今年は70年間の人生で特別な1年ともいえる年でした。
3)
今年は壮絶な生活の10年間の最後の年ともいえる、
今年は崇高な修行の10年間の最後の年ともいえる、
今年は70年間の人生で人の機微と対峙する特別な10年間の内の最後の1年間ともいえる年でした。
4)
今、 丁度17年前(平成13年12月)に私の父が大動脈破裂で亡くなった場所に立っています。
その1m位のすぐそば、つまりその隣の部屋の廊下側に電話が設置してあります。
私の父が部屋からトイレへ行こうとして廊下へ出た際の室温の寒暖差が要因 引き金だったようです。
私の母が私に電話をしたところにセット的に椅子を置いてあります。
5)
この10年間
私は毎週2度はここを訪れて庭の手入れなどの報告を私の母へしていました。
その作業中や後に休憩する際、この椅子に腰掛けて当時の母の心情に思いを馳せてきました。
6)
18年前、
私の母から電話を受けて駆けつけた時は、私の父が自宅玄関からタンカーで救急車に乗せられるところでした。
救急隊員さんと一瞬目が合い覚悟をしなければならい状況が脳裏を走りました。
7)
救急車の後を追って美祢市立病院へ行きました。
当直の医師や看護師さんの心臓蘇生から電気ショックへ変わり、
通常の肌色だった私の父の顔や上半身の肌が みるみる真っ青になり、
医師や看護師さんが何度も私の顔を見るような状況になりました。
8)
機械 計器には脈拍を表す様子(ようす) 兆候(ちょうこう)には戻りませんでした。
私の母とそして私の弟たちは、用心深い長男の私が納得するまで待っている様子でした。
私は私の母の代わりにもういいですっと発言しました。
その瞬間、私の父のこの世での死が確定されました。
9)
看護士さんたちに親族等に連絡をする様に促(うなが)されて、
病院の夜間出入口の外から携帯電話で叔父の末永恕助さんへ連絡しましたが(清子叔母さんからさっと電話口にかわってもらいましたが)、
「父が」の後「亡くなりました」の「な」がどうしても涙と共に声を発する事が出来ませんでした。
10)
私の父が亡くなって、私の母は独居で7年間ここ(山口県美祢市伊佐町の自宅)で暮らしていました。
11)
13年前から私の母との同居用に設計 新築していた山口県山口市大内御堀六丁目3番1号の末永写真舘に、
私の母の姉の清子伯母さんの長男幸夫夫婦がわざわざ来られての同居の勧めもあり、
私の母の同意というより むしろ私の母からの希望もあり、10年前から私たち夫婦との同居生活が始まりました。
12)
両親が晩年用に建てたここ山口県美祢市伊佐町の平屋建家屋は、
17年前から 私の父が建てた美祢駅前通りの末永写真舘等々と共に私の両親との約束通り、
維持 修理 納税 保険 管理等々の役目を果たさせていただきました。
13)
私は今から30年前から10年と半年間、山口県美祢市大嶺町の民生児童委員をお受けした際、
他人のお母さんたちを看ささせていただきお世話させていただく役目を果たさせていただきました。
14)
私は、せめて自分の母親だけは、
その10年半という期間以上は看させて頂きたいという信念がありました。
しかし、その願いは叶うことはありませんでした。
15)
私の母の老衰(ろうすい)の場合は、
私の父の時ような力強い蘇生(そせい)を施(ほどこ)すと肋骨が折れるとの担当医師の言葉と共に、
母の絶命を厳粛(げんしゅく)に了解する決心をして、担当医師へ蘇生(そせい)を施(ほどこ)さないことを承諾しました。
その瞬間に私を産んでくださった私の母親の此の世での死が確定されました。
16)
私の母の死顔(しにがお)を眺めながら、
この10年間の共に流した数え切れないほどの嬉し涙が浮かんで来ました。
17)
最初の8年間の嫁と姑のお互いの時間を大切にする為に その交互に異文化を訪ねた頃、
特に車椅子生活になった私の母を伴って世界40ヶ国の文化を訪ねての交流シーンはまるでこの世とは思えない程の異次元の世界旅行でした。
18)
それは、私の母と私との共通人物の私の父を偲ぶ(しのぶ)旅でもありました。
19)
特にこの2年間の寿命と対峙しながらの一喜一憂(いっきいちゆう)した涙と覚悟(かくご)の日々が私の脳裏(のうり)を廻(めぐ)りました。
20)
私の母の入れ歯は、2年前に緊急入院した際に外されたままの状況が継続していました。
看護師さんから、自宅へ持ち帰るようにいわれて、私の自宅の私の母の部屋の机の上にいつでもまた母の口に戻せるように準備して祈っていました。
21)
私の母のその入れ歯を私の手で丁寧(ていねい)に亡くなっていても祈る気持ちで母の口の下の位置に戻してから、御寺様に枕経(まくらきょう)を挙げていただきました。
22)
私も、 いつ死んでも不思議ではない年齢になりました。
23)
また、 そのつもりで これまで自分のDNA運命街道をまっしぐらに歩んで来ました。
24)
来年、もし私が生きていましたら、 それなりにしなければならない事が沢山あります。宜しく御願いしますね。
(facebookより移行しました)
. 山口県山口市大内御堀六丁目3番1号 (仁保川沿/県立山口中央高等学校&水道局隣)
末永写真舘 三代目館主 末永輝清(69歳)
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. 山口県美祢(みね)市美祢駅前通り 末永写真舘美祢本館は四代目の長男と次男等が担当しています。