#お墓に捧げた花】Flower dedicated to the grave
14年前に美祢市の末永写真舘本舘を長男と次男たちに任せて、検討したハワイ永住を諦めて山口市に母と同居用に設計新築した末永写真舘山口新舘。
11年前から母方の従兄弟 久保幸夫さん夫婦の勧めもあり私の母と同居を始めることを切っ掛けに私の妻も一緒に暮らすことになり私の初めての単身赴任生活に幕を閉じ、10年間の同居生活が始まりました。
嫁と姑のお互いの時間を大切にする為に、その交互に異文化を訪ねて現地の人たちと交流を深めてきました。
その切っ掛けは、
かつての陸上競技短距離走選手としてその名を馳せた私の母も車椅子になっていましたが、
私が家業を継いてガンガン働いていた頃、私の父は私の母を伴って約10年間を掛けて世界の先進国を旅行していましたが、
母親と同居して会話の中で「船の旅行はしたことがない」と聞いて、
かつて私の父は、南方戦線で生き延びて終戦後復員しましたが、
その戦地へ赴く際に 輸送船で九州の港よりマニラ港inフィリピン????????へ向かう途中に米軍の潜水艦から発射された魚雷の餌食(えじき)となり、
御国の為 天皇陛下の為にと若い男性兵隊を乗せた輸送船11隻の内10隻が海の藻屑(もずく)となり
戦地へ到着する事さえ出来ずに命を落としていった現場体験をした父にとっては恐怖の船旅だったから戦後になっても船旅を思い出したくないからだと思い、
車椅子の母親を伴って船旅も含めた世界介助旅行に出掛けることにしました。
それは、正に「父を偲(しの)ぶ旅」でした。
戦争中に祖母の弟 田村家の大黒柱(長男) 田村輝男の死、私の父の直ぐ下(次男)の弟 末永 登の死、私の母の兄 小方徳三郎の死…。
其々の墓前の花の話に花が咲いたりした母親との介護介助旅行でもありました。
旅行は、病院や施設とは異なって24時間介護 介助ですが、それが長い旅行でしたら約1ヶ月間継続する訳ですから介護 介助の本質が自(おの)ずと見えてきますから、お勧めです。
墓前の花の話の中でも、
私が今日思い出したのが母を可愛がっていた文武両道、満州で教師でもあり、国内で国体三段跳びで活躍した際、
会場迄父親の小方圭一(地元の小学校の校長でもあり有名なスプリンターでもあった)が当時の時代に子供の応援に父親が行くことは稀な事なのに応援に行った程の 私の母の兄や小方徳三郎は好青年の様でしたが、
独身で亡くなった彼の墓前には、何年間だったか長いこと その家族が御参りする前に必ず綺麗な花が生けてあったそうでした。
自(おの)ずと、小方家の家族で話題になったようでした。
私の母が独身時代でしたから 当然私が生まれる前の戦後の混乱した社会での事で、
花に纏(まつ)わる綺麗で切ない、私の心が洗われる程の花の心に再会したかの様な、私にとっては美し過ぎる母の思い出話でした。
私は、ヨーロッパから南米へ向かう暗闇の大西洋上を13時間の飛行中、ビジネスクラスの席で身体(背中を少し伸ばして)を並んで寝そべりながら母の話に耳を傾けていました。
母親として長男には伝えておいておきたいと思った沢山の話を、母の好きな旅行中だからこそどんどん思い浮かんできたのかも知れません。
兄(小方徳三郎)を慕う女性がその墓前に御参りされたのではないかと、戦争で命を落とした母が慕うところの兄の独身時代の青春に そして その思いに 浸っていました。
私には、何故か人の機微(きび)を美しく感じました。
こんな話を聞けるのも、介助旅行の魅力なので、母親を伴っての旅行を勧める理由でもあります。
思えば、私の母が昨年5月行年92歳で亡くなって既に一周忌を2ヶ月も過ぎたのに、
私が古稀70歳を過ぎても尚、その悲しみは未だに癒(い)えません。
余りにも思い出があり過ぎるからかも知れません。
私の青春時代に出会った50年前の人(古稀70歳を過ぎておられると思われる)の消息が気にる事も、私の遺伝子としてDNAとして関連があるように感じられてなりません。
もし、彼女が生きておらられば、そしてもし花を贈っても良い環境に暮らしておられればと願いつつ今もその消息分かることを祈念しているところです。
墓前の花になる前に、生きておられるうちに贈りたいものです。
古今東西の凡ゆる作家や監督や俳優や修行僧等々さえも信じられない程の崇高にして美し過ぎる一期一会の出会いに感謝していますと。
 
(facebookより移行)