介護物語 nursing care story

投稿日時:2023年08月01日  カテゴリー:自分史  タグ:なし

贅沢をしない様に、つまり質素倹約は美徳として生きてきた環境に感謝している私。

飛行機のビジネスクラスに乗る人の心境を知ろうとはしなかった私。

私が還暦近くになった年齢の頃に、

私の父が亡くなって7年間独居生活を送っていた私の母との同居用に設計新築していた家屋で同居生活を始めることになった。

それを機会に妻も一緒に新居で暮らすことになった。

嫁と姑のお互いの時間を大切にする為に、

その交互に異文化を訪ねる旅行を試みることにした。

それは私自身の人生を諦める決意でもあった。

それは私自身の30代後半から連続して10年半という期間に体験させて頂いた民生委員児童委員の経験から、

つまり他人のお母さんを看させていただいた際に、

せめて自分の母親だけは
その奉仕期間の10年半という日時よりも1秒でも長く
看させていただきたいと決心していたからでした。

両親が祖母を看取った様に、
介護 介助は私にとってはそれなりの決意が必要と思っていたからでした。

母親と同居生活を始めて1年目に私の母は亡父と先進国を10年かけて世界中を旅行していた事を思い出していたのか、

母は「私は船の旅をしたことがない」と私に話しました。

最初は無意識に聞き流してしまったのですが、

2度目に聞いた際に気付いたことがありました。

それは亡父は先の大戦(第二次世界大戦•太平洋戦争)時代南方戦線のマニラ港inフィリピン🇵🇭へ向けて九州の港から「あゝ堂々の輸送船」という歌に送られて戦地に向かったけれど、

若い兵隊を乗せた11隻の輸送船はアメリカ軍の潜水艦から発射した魚雷の餌食となり、海の藻屑と化しました。

マニラ港に着いたのはなんと1隻だったとの事。

奇跡的に助かった兵隊も食料の補給路を断たれて食べるものもなくジャングルを戦友の負傷兵を背負って自らもマラリアにかかり彷徨う地獄。

そんな体験者が復員後お見合い結婚して私が生まれ私が家業を継いだ頃、

両親が10年かけての海外旅行中に船旅が無かったことは頷けるものでした。

80歳を超えた車椅子生活の母との旅行を決意したのは #飛行機のビジネスクラスの存在 でした。

そして #クルーズ船ポールゴーギャン号inソシエテ諸島の存在 でした。

#若い頃の苦労が晩年に報われる社会

#若い頃の苦労が晩年に報われる家庭

#人の生き方はそれぞれ

#その人の幸せ

#幸せを感じる

 

【2023令和5.7/31 mom #Facebook日記数え年75】