友の死 death of a friend
#友の死 death of a friend
昨日、
地元の小学校•中学校•高等学校が一緒だった同級生KYさん(学生時代は会話をすることがなかったけれど、
田舎に暮らしておられると同窓会のお世話等で性別を問わず徐々に同級生という存在感を増してくるものです)と会話する中で、
ある人というかある友の死を知りました。
しかも数年前とのこと。
彼女が亡くなった数年後、
地元におられたその姉もお亡くなりになったとの事。
日本人女性の平均寿命よりも遥かに高速度で凝縮された生涯だったのだなぁっと思いました。
私が中学校3年生の時、
昼休み時間だったか
同級生の西村君から教室の前の廊下で
「末永〜.顔を貸して」と言われてバレーボール部の長身の彼の後ろを付いて行った先が体育館近くの校庭でした。
彼は目配りで校庭の方向を見る様にとの仕草をして私に背を向けて立ち去りました。
彼の目配りの方向を見ると、
校庭の真ん中に1人の女子生徒が後向きにポツンと立っていました。
その方向に進みました。
近付くと、
彼女は振り向きました。
TM(※1)さんでした。
家の方向は異なるけれど田舎の小学校と中学校が一緒だったので、
名前は知っていました。
「明日から北海道の親戚に養女として貰われて行くので、末永君とは2度と会えないかもしれないので私の気持ちを伝えたかった」と彼女は私の目を見ながら話し始めました。
私の生涯で面と向かって(目を見て)告白した人は彼女だけだったので、
私が死ぬ迄に生きておられるかだけでも知りたかった人の内のひとりでした。
詳細を知る事は難しいとは思うけれど
もしも判れば、お墓参りだけでも出来れば有難いと思っています。
…
人は
自分が気付かなくても
見ていてくださる人がいることを
初めて知った&気付かせてくださった初めての人でした。
……
(※1):旧姓 松永妙子さんです。
私が初めての海外(※2) カメラ一人旅(※3)をした際に毎日新聞の日曜日の対話欄に記事として紹介さたことが切っ掛けで、
写真展(福岡天神岩田屋本店、下関大丸、宇部大和)を開催。
その後、写真集を初出版(自費出版「南太平洋の泉~トラックラグーンの人々~」)した際に高額なのに1冊購入して下さった記憶があり、
これ迄見たこともない程の綺麗な文字での感想文を頂いた事もありました。
(※2):両親や祖父母の戦争体験の影響からか、私の初渡航先は観光地ではなくて、第二次世界大戦•太平洋戦争の痕跡の一部を自分の目で確認する事を兼ねてトラック諸島inミクロネシア🇫🇲にしました。
(※3):この「カメラひとり旅」期間中に22歳の誕生日を迎えました。
その日の晩に宿泊していたトラック諸島唯一のモエン島(春島)の空港(※4)近くに位置するトラック諸島唯一のホテルの御主人達から声を掛けられて祝って下さいました。
おそらく、私のパスポートか何かで私の誕生日を知ったのでしょう。お陰で半世紀以上経過してもその当時の様子が記念写真と共に鮮明に甦ります。
(※4):先の戦時中の日本が占領していた頃は、ETTEL(日本名タケ島)に日本軍が建設したコンクリートの滑走路の空港があったが私が訪ねた頃はコンクリートの割れ目から私の身長の2倍位のススキな様なものが生い茂って使用されていませんでした。
現地の人に尋ねると、アメリカ軍はその空港を使用しないで新たにMOEN(日本統治下の名称は春島:私が訪ねた頃は未だ春島と言っていた記憶があります。)に空港を建設したとの事でしたが、
なんとその滑走路は土でした。
飛行機が着陸する際は、一旦豚や鶏等を低空飛行で蹴散らしてから着陸していました。
参考文献:#末永輝清写真集『南太平洋の泉~トラックラグーンの人々』著者 末永輝清 (自費出版)1971年7月10日発行より
「Facebook日記数え年75歳2023令和5.7/27Thu」