母の最後の写真last photo of my mom

投稿日時:2023年08月09日  カテゴリー:自分史  タグ:なし

【 #母親の最後の写真 】(表紙の写真)
それは、
「私の母が亡くなる丁度ひと月前、リハビリ中に私と話している写真でした」

photograph/2018年(平成30年)4月27日friday.

私が30歳代後半から約10年半の期間を #民生委員 (民生児童委員)を務めさせていただいたことがあります.

極端に言えば、他人のお母さんを看させて頂いたわけですが、その時私が決意したことは「せめて私の母親だけはこの奉仕期間よりも1秒でも長く看させて頂きたい」でした.

私の父が亡くなって独居生活を送っていた私の母.

私の従兄弟久保幸夫さん夫婦がわざわざ隣の市の山口市の末永写真舘山口新舘迄来られて

「先日の母(私の母の7人兄妹の内三姉妹の長女/:久保清子私の母は三女)の法事の際の輝ちゃんのお母さんの様子を考えると、そろそろ輝ちゃんがお母さんと同居用に設計新築したここで一緒に暮らした方が良い」

と助言を頂きました.

その後約10年間、私の妻と共にそしてパピヨンのレオも加わって暮らしてきました.

同居の翌年から、嫁と姑とのお互いの時間を大切にする為にその交互に異文化を訪ねて交流する事を試みました.

かつての陸上競技短距離走の名スプリンターだった私の母も車椅子生活になっていました.

先程の三姉妹が結婚後、その子供たちが成長後に三姉妹だけでハワイ諸島を訪ねる程、私の母はハワイ諸島を気に入っていたのでそこを出来るだけ旅行日程に加える工夫をしました.

車椅子世界一周介助旅行を始め毎年2回のペースで異文化を訪ねました.

それはとりも直さず、私の亡き父を偲ぶ旅でもありました.

私の母と2人で地球を移動した #飛行時間だけでも数百時間.

#そんな私の母でもやがて寿命を全うする時が来ることを受け止めなければならない時がやって来ます.

色んな運が重なって寿命が決まっていることが解ってきました.

当時の地球の異文化の大地を一緒に踏み締めてきた靴は未だに処分出来ません.

思い出を沢山共有出来たことが最大の幸せです.

表紙以外の写真は、2022年令和4年7月ふづき(文月)孟秋•初秋July•Juli 1日Fridayのものです.
Friday morning 74(数え年年度)
パピヨンのレオ16(数え年年度:人間年齢換算76歳以上)

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