【3度の世界一周旅行で思うこと】

投稿日時:2017年06月17日  カテゴリー:地球散歩シリーズ  タグ:なし

【7年前のレオ】
2010年(平成22年)6月23日wednesdayに妻とは初めての世界一周個人旅行(22日間の弾丸旅行でした)から帰国後、レオを迎えに行きました。
帰宅後、レオがスーツケースに入っていました。

当時のレオは3歳、私は61歳でした。

因みに、最初の2度の世界一周旅行は今から8年前の1~2月と8月で 当時81歳~82歳の母との旅行でした。その当時の私は59歳~60歳の頃でした。

妻には、世にいう一般的な優雅な旅行ではなかったので、よく我慢して私の御伴をしてくれたなぁと相済まなく思っています。また感謝すると共に 有り難く思っています。
私は、私の妻には 面と向かっては言えませんが、妻と一緒だったからこそ 現在があるように思って感謝しているとともにこれ迄運が良かったと思っています。

一方、私の妻は、私とは全く反対の意見みたいですが、もう人生は再現出来ないので仕方がありません。これも運なのでしょう。

私は、他人同士が縁あって結婚して、死ぬ迄意見が合うこと自体不思議なことと思っています。私は、例え夫婦、親子といえども、意見が合わなくなること、お互いに我慢することは、自然の道理のように思っています。
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【今回の世界一周旅行行程概略(with my wife)】
博多で前泊、早朝 福岡空港から成田空港へ。
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パリ経由で、といっても初めからパリ発が1~2時間遅れてのフライトでアテネ空港へ到着、次の便と一緒になり空港内は ごった返していました。
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当時、ギリシャは経済破綻のニュースで持ちきりでしたので国民の深刻な表情を覚悟していましたが、全くその逆で、街は真夜中でも沢山の陽気な人で一杯でした。危機感を感じて心配している自分は何だったのだろうと自分に驚きました。矢張り現地を訪ねてみないと分からない事もあるものだと思いました。
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早朝、ピレウス港よりクルーズ船でボスポラス海峡へ。
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イスタンブール(ブルーモスクの青いチューリップの絨毯)から世界遺産ミコノス島へ。
入港後有料シャトルバスで街中へ、散策後バスで港へ、夕陽を眺めながら出港、キプロス島の近くを航行してイスラエルへ向かう。
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イスラエルのアシュドット港よりエルサレムのキリストの御墓参りへバスで往復。
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スエズ運河のポート・サイド港より エジプトのクフ王のピラミッドやスフィンクスへバスで移動、
その後、古代エジプト最後の王となってしまったクレオパトラの所縁のアレクサンドリア港へ。
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クルーズ船でギリシャ最南端に位置するクレタ島へ、そしてギリシャの首都アテネへ。
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ギリシャ・アテネののピレウス港よりペロポネソス半島のコリントス遺跡へ予約タクシーで片道約85kmを往復後アテネ市内観光。

クルーズ船で8日間航海していたエーゲ海。そのエーゲ海とコリンティアスコス湾を一直線で結ぶコリントス運河は、高さ80m、幅23m、長さ6343m。

エジプト・スエズ運河が開通した24年後の1893年、紀元前7世紀の構想がようやく完成したという。大きな橋からは切り立った崖が両側から迫り、はるか下方に緑色の細い水面が広がる風景は迫力があり印象的でした。

予約タクシーで往復後アテネ市内観光。私の妻は、暑さでパルテノン神殿は入口で動けなくなり、日陰で待ってもらいました。

ここでも そうですが、行く先々に中国人団体観光客に遭遇しました。
今回の世界一周旅行で後日に訪ねるシカゴの現地ガイドさんによれば、日本人よりは中国人観光客のほうが多いそうでした。
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空路、最後の晩餐の壁画を鑑賞する為に深夜ミラノへ。
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空路、夕焼けのパリへ。
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2010年(平成22年)6月13日sunday早朝、モン・サン・ミッシェルへバスで往復。
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早朝、リヨン駅からマルセイユ行きの新幹線で2時間半、シャロンシュルソーヌ駅下車、写真の発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスの銅像、博物館、生家そして御墓参りへタクシーで往復後新幹線でパリへ。
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夕暮れのセーヌ川クルーズは寒くて屋上の階の乗客は、クエートからの母と姉妹3人と私達夫婦の5人でした。
姉の方は車椅子でした。シャンゼリゼ通りの有名バック本店前からずっと同じ道を歩いてこの船着場迄一緒の家族の方でした。
エッフェル塔の夜景や川辺のカップルが私達夫婦へ手を振る姿をバックにしてクエートからの観光客のその明るい性格の妹さんに私が持参している重たいカメラのシャッターを押していただきました。
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翌日、パリのシャルルドゴー空港から空路、大西洋を越えてニューヨークへ。
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マンハッタンから船で自由の女神像へ。夕刻、ホテル ニッコウよりブロードウエーでのショー鑑賞へ歩いて往復。
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早朝、ワシントンのアーリントン墓地のジョン・F・ケネディの御墓参り、リンカーン記念館、スミソニアン博物館、ホワイトハウス訪問へ アムトラック特急列車で往復。
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空路、といっても、今回の旅行の唯一の国内線なので、色々トラブル続きでしかも搭乗したものの滑走路の順番待ちだけで1~2時間遅れてニューヨークを離陸、
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シカゴの空港へ到着後、タクシーでホテルへ向かってスーツケースを預け、タクシーでシカゴ郊外のエバンストンの国際ロータリー本部を訪問。
その後、半日タクシーを借り切ってシカゴ郊外のロータリーの創始者ポール・パーシー・ハリスの暮らした家やその御墓参りへ。
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移民が多い街らしくて、地図が読めないドライバーでした。
この度の海外個人旅行は特別に、片時も予定通りにスムーズに進んだことはありませんでした。
何時もヒヤヒヤ ドキドキの珍道中だからこそ味わえる、旅の醍醐味のようなものを結果的に無事に帰国することが出来たので味わう事が出来ました。
チケットをお願いした地元の旅行社の社長さんは、無事に帰国出来たことに驚いておられました。
過密スケジュール故に、1つ間違えれば帰国出来ないことを予測しておられましたから。
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空路、モントリオールへ。
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早朝、ロータリーの創始者を育てた祖父母の家とその御墓参りへ専用タクシーで国境を越えて往復。
晩に、モントリオールのレストランにて国際ロータリー第2710地区ガバナーナイト出席後花火を観ながら海岸からホテルへ歩いて向かう。
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早朝、日本人朝食会、年次大会など。
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デトロイト経由で太平洋を越えて帰国の途へ。
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夕刻、成田空港到着後 晩に空路福岡空港へ、深夜 タクシーで日付を跨いで山口市の自宅へ。

【まとめ】
私の妻との世界一周旅行日数は22日間。2010年(平成22年)6月2日wednesday~6月23日wednesday
飛行機搭乗回数は12回
飛行機移動時間(所要時間)は51時間34分
飛行マイル数は22,017マイル。

【3度の世界一周旅行で思うこと(仮のタイトル)】
????目次????
1.【はじめに にかえて】
2.【3度目の世界一周旅行は、妻と共に】
内容は22日間の主な行程一覧表形式で書き綴っています。
2010年(平成22年)6月2日wednesday~6月23日wednesday22日間/飛行機搭乗12回/飛行機移動時間51時間34分/飛行マイル数22,017マイル。
3.【母との車椅子保養介助旅行】
その主な海外旅行日程&記録を書き出してみました。
4.【海外旅行期間中に国内に残ったペットの精神障害とは】
5.【何故、高齢で車椅子の母と2度、そして病弱となった妻と1度、計3度 世界一周旅行をすることが出来たのだろうか】
6.【おわりに にかえて】
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????1.【はじめに にかえて】
7年前の今日、当時61歳の私はエーゲ海のクレタ島にいたのですね。FBがまるで日記帳のようで、記憶が蘇って有難いです。FB利用ファンが増えてFB社の業績がUPする筈ですね。
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ところで、もし あの時出掛けていなかったら 私達夫婦は生涯このエーゲ海を航海して潮風に触れたりクレタ文明遺跡に触れることはなかったでしょう。
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何故なら、両方の母親の入退院の繰り返しに寄り添ったり、私達自身の健康自体に寿命を感じて そのメンテナンスに奔走する日々との共存生活があるからでした。
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「母親よりは長生きしなければ」が私達夫婦の合言葉でした。
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義母とは、
美祢市→山口市(泊)→伊豆下田(泊)→東京(泊)→八丈島(泊)→東京→軽井沢(泊)→新潟→佐渡島(泊)→新潟→倉敷(泊)→山口市(泊)→美祢市
などの当時制作した旅行写真集を見るとどんどん思い出が蘇ります。
その義母は一昨年4月、91歳で亡くなりました。
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残っている89歳の私の母には悔いが残らないように心掛けているところです。
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今から2年前の2015年(平成27年)正月はワイキキinオアフ島(ハワイ諸島)を隈無く当時87歳の母を乗せた車椅子を押しながら散策しました。
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私の母は例え周りに人がいても母は軽やかに自分の世界を満喫しながら鼻歌を歌っていました。私の方が恥ずかしいので、人影がないとき歌ってっとたまに諭すほどでした。
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しかし、それではワイキキを遥々老体に鞭打ってやってきた価値が薄れるので、途中からは私も一緒に口ずさんだものでした。
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母の予備の紙オムツ使い切ってしまい、それを買い求める事に関するエピソードなどなど、まだまだ際限無く書き留めておかなければならないと思う事は多々あります。
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私の母は気分が良い時は歌いながら右手でタクトを振るジェスチャをする癖があります。その姿が後ろから車椅子を押しながら前方の景色と共に人生の晩年のあり方を見る思いがするのです。
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私自身の晩年は、もうこのような時代ではなくなっている事でしょう。それ程、人としての晩年の幸せが阻害される社会へと急速になりました。
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人の精神を病む勢いがグローバル化してきたからともいえると思います。
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だからこそ、今から8年前の2009年(平成21年)1~2月と8月の私の母を伴っての2度の世界一周旅行は価値があるものでした。当時の母は81~82歳、私は59~60歳の頃でした。
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だからこそ、その次は私の妻を伴っての世界一周旅行と気負う事ができました。妻とのこの旅行は、2010年(平成22年)6月で私が61歳の頃でした。
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思えば、家族が健康だったから後ろ髪を引かれる事なく思い切って出国する事が出来たように思われます。
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今の混沌とした大不況時代に税金と保険料などのウエイトの占有率が高くなった個人主義の世の中を、どのように希望を持って暮らせば良いのだろうか。
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多少不便でも、働けなくてもなんとか自給自足や物々交換で生きていかれる幸せの共同社会の世界もこれまで世界旅行を通して垣間見てきました。
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先進国が貧困と決めつけて自分の都合でゼネコン等と政治が共同で環境破壊や文化破壊を繰り返しているのも合わせて垣間見てきました。
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資本主義社会における巨大企業の立場からすればそれらが正義なのでしょうが、何かが狂っているように思えてなりませんでした。
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ファッションもファーストフードなどもしかりです。世界中を訪ねても流通ネットを駆使して世界中が同じ思考化傾向にある事に脅威すら感じてなりませんでした。
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少数民族や少数文化また少数言語等々人類の希少価値がどんどんこの地球上から消滅、焼却されています。
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ある時は私の母と、またある時は私の妻と世界中を訪ねてみてそのような侘しさを感じてきました。
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「旅は学校だ」っとアンデルセンはその処女作(著書)『徒歩旅行』に書いておられた事が脳裏を掠めます。
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????2.【3度目の世界一周旅行は、妻と共に】
前述文にあります。
2010年(平成22年)6月2日wednesday~6月23日wednesday22日間/飛行機搭乗12回/飛行機移動時間51時間34分/飛行マイル数22,017マイル。
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????3.【母との車椅子保養介助旅行】の主な記録を下記に書き出してみました。
【母を伴っての車椅子介助海外旅行記録一覧表】
2006年(平成18年)正月、母との同居用の家兼 私の生涯現役というか晩年用の写真舘が山口市大内御堀991-2に約2m埋立して新築完成して開館。母78歳/私56歳。
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2007年(平成19年)10月、母80歳/私58歳の時、従兄弟(母の姉の長男)夫婦の勧めを切っ掛けに母と同居を始める。
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2008年(平成20年)1月、母を伴って真珠湾訪問(オアフ島inハワイ諸島)。母は既に父と2~3度、7人兄妹の3人姉妹で1度ハワイ諸島を訪ねていましたが、大変気に入っていましたので再度訪ねました。母80歳/私58歳。
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2009年(平成21年)1~2月、母を伴って初めての世界一周旅行。アフリカ(南アフリカ共和国、ジンバブエ、ケニアなど)、中近東(ヨルダン、イスラエルなど)、ヨーロッパ、南米。母81歳/私還暦前後。
KRYラジオ山口より山口市の自宅にて自宅にて番組収録を受けました。
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2009年(平成21年)8月、母を伴って2度目の世界一周旅行。アジア、オセアニア、北欧、ヨーロッパ、南米、中米、北米。母82歳/私60歳。
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2010年(平成22年)1月23~2月16日(26日間)母を伴ってイースター島&タヒチ諸島(クルーズ船ポールゴーキャン号にてソシエテ諸島クルーズ、ボラボラ島など)&ハワイ諸島の旅。母82歳/私60歳。
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2011年(平成23年)正月(正確には年末年始を日付け変更線の為に2日連続して年末年始を過ごしました)、母を伴ってニュージーランド&ハワイ諸島の旅。母83歳/私61歳。
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2012年(平成24年)1月、母を伴ってパース(オーストラリア)&バリ島(インドネシア)の旅。母84歳/私62歳。
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2013年(平成25年)正月(正確には年末年始)、シンガポールの旅。母85歳/私63歳。
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2013年(平成25年)8月、カハラホテルinオアフ島。母86歳/私64歳。
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2015年(平成27年)正月(正確には年末年始)、ワイキキinオアフ島。母87歳/私65歳。
私は極力、北半球の日本が雪の季節には車椅子の母を伴って日本を脱出して常夏の島など南半球で保養介助を兼ねて過ごすようにしました。
それは、せめて その間だけでも、嫁(私の妻)と姑(私の母)が別々に自分の時間の中で過ごす(暮らす)ように自分なりの配慮のつもりでもありました。
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????4.【海外旅行期間中に国内に残ったペットの精神障害とは】
この22日間による世界一周旅行期間中のレオに対する私の判断ミスによる、現在10歳2ヶ月のパピヨンのレオには 未だに精神的後遺症が残る程の事がありました。詳細は追い追い記述しておきたいと思っています。
結論は、価格が安い事に目を奪われてはならない事です。常日頃、私の価値観を基準にした考え方をしてきたにもかかわらず、また、下見をした際に大型犬が沢山いて大声がしていたにもかかわらず自分の判断が甘かった事がレオに迷惑を及ぼした形跡大であると後悔しているからです。
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????5.【何故、高齢で車椅子の母と2度、そして病弱となった妻と1度、計3度 世界一周旅行をすることが出来たのだろうか】
それは、私が最も影響を受けた 私の両親そして私の祖父母や義祖父母の生き方のロマン(浪漫)迄遡ります。
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私は 幼い頃から、両親や祖父母から質素倹約生活を旨として育てられました。
それがむしろ当たり前と考えていました。
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戦時中、南方戦線で九死に一生を得た父。高等女学校時代、学徒動員で下関市彦島の軍需工場で父と同じ目に遭った母。
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私は戦後生れの団塊の世代ですが、大量生産大量消費の宣伝に乗る事もなく、両親や御先祖様の血を引いて私なりに我が道を歩いてきました。
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そして、長い間貯蓄した お金は、自分のロマンのために命をかけて悔い無く使いたいと思っていました。
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私の両親も御先祖様もそうでした。私にはそういった血が流れているようです。
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ある本によると、時代の寵児ビルゲイツは、膨大な財と名誉を得ましたが、自分の両親と共に過ごした時間がなかったことをとても悔やんでおられるようでした。
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あれほど優秀な人でさえでも です。
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それ程、現代社会では親を看る事が出来なくなるほど荒んだ社会へと突き進み、人類破滅へそのグローバル化へと向かってしまいました。
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私は、文明が発達して生活が便利になるとの宣伝に乗る事もなく、戦争で生き残った両親やその御先祖様の血を引いて私なりの我が道を歩いてきました。
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そして 今から8年前、母を伴って最初の世界一周旅行中にケニアのマサイ村のマサイ族を訪ねた際、
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あの砂漠の中の標高6000m近い頂上に万年雪を被ったキリマンジャロ山麓にあって独自の文化を大切にしながらも現代社会との接点を持つ強かさに接して、
私は 彼らが哲学者軍団に見えてショックを受けたことがありました。
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真っ先に訪ねる地にアフリカ大陸を選んだ理由は、かつて 父が母を伴って10年かけて世界中の先進地を訪ねた際にナイヤガラの滝を訪れていましたが、残りは私に託されていました。
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その世界3大瀑布の内残り2つの先ず南アフリカ ジンバブエとザンビア間を流れるザンベジ川のビクトリアの滝を、
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そして世界一周旅行の後半に南米 ブラジルとアルゼンチン間を流れるイグアス川のイグアスの滝を訪ねるコースにした経緯がありました。
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因みに、2009年(平成21年)2月(母は81歳、私は還暦を迎えたばかりの頃)この滝の下流近くにパラグアイとブラジル間を通って流れてきたパラナイバ川とこのイグアス川が合流する地点がこの3ヶ国の接点でもあり、3ヶ国の国旗が掲げてありました。
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ここで母とのツーショットの記念撮影をしましたが、
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その3年前の2006年(平成18年)8月(私が57歳の頃)に妻とツーショットで記念撮影をした同じ場所でもありました。
父の許可を得て小学校6年生の1年間新聞配達をさせていただいた際、母は私名義の郵便貯金通帳を作ってくださいました(くれました)。
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このことが、後に私の人生を大きく変えることになりました。
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そして 学生時代は、スポーツで怪我との共存生活の中 強靭な精神力と体力に自信を持つことが出来ました。
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高校時代、大分国体の水球会場で明治大学より勧誘を受けた際、長男だから家業を継ぐのでと折角の御話なのに断念しました。
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高等学校卒業後、家業を継ぐために国内で営業写真が学べる唯一の専門学校へ進学しました。
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卒業後帰郷して社会人として昼間働いて、夜に車の運転免許を取得するために自動車学校に通いました。
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そして、経営を学ぶために夜間学部のある大学へ車と列車を乗り継いで通学しました。
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父の経営する写真館を継ぎながら、会社を設立して事業の拡大に伴って法律を学ぶ必要に迫られたため 更に、通信教育(法学部)のスクーリングで夏休み時期の40日間東京で学びました。最初のスクーリング時期に長男が産まれました。
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社会人になって、人の数倍は働らけたという自負心は、全て両親や妻や義父母はもとより、祖父母や 母方の祖父母そして良き昭和という時代の御蔭でした。
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????6.【終わり にかえて】
現在89歳の母は、昨年2026年(平成28年)9月15日thursdayに夕刻から晩そして夜にかけて掛かり付け医師のレントゲン撮影(病名はoooでした)から緊急総合病院へ紹介搬送されてそこでもレントゲン撮影などの結果延命措置をしますかっと当直医師より尋ねられました。
返事をして緊急処置(手術)入院して以来、本日2017年(平成29年)6月9日fridayで268日目(あれから235日目,それから186日目)、リハビリ施設と理学療養士、作業療養師が充実しているその関連しているその近くの近年新しく建て替わった病院(同じ敷地内の隣の施設は、
今から9年前に同居した頃に、自宅と同じ町内班内にあるデイサービスのケアマネージャーに紹介されてショートステイ利用の際に母が気に入っていた所)へ転院後96日目を迎えました。
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私は 今から68年前に末永家の第1子長男として、家族に期待されてこの世に生まれてきました。そして今、病床にある母の寿命のキーパーソンという立場にいます。
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この268日間のほぼ毎日、母とアイコンタクトをとってきました。
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昨日は、仕事や私自身の健康の都合で母に会えませんでした。
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結果的に、母の体温はこの2日間38度近くに上っていました。
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今夜も私の母は私の手を握りしめて離そうとはしませんでした。
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一昨年4月、91歳で亡くなった義母は 私の妻(義母の長女)の手を強く握りしめたままその寿命を終えました。
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予断を許さない貴重な日々が、地球の自転という信じられない程の猛スピードでどんどんと過ぎ去っていきます。
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「お母さん、長男の輝清よ。68年前に私を産んでくださって(くれて)有難う御座います。感謝しています。」これは、毎回の会話の中に1度は出てくる私からのメッセージですが、母はしっかりと私の目を見て聞いてくださいます(聞いてくれます)。
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戦争で生き残った母は、戦争で生き残った父と共に、私が家業を継いで30歳代の頃に世界中の先進国を10年かけて旅行していました。
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今年(2017年)の12月には亡き父の17回忌を迎えます。
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私は母と同居を始めて以来のこの8年間、車椅子に乗った母を伴って世界中を旅行してきました。
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それは、正に「父を偲ぶ旅」でもありました。
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私の母と私の父は、私と私の母との共通の絆で結ばれていました。
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母は父を敬愛していました。私は父を尊敬していました。その絆で共通するものがありました。
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近年 世界のメディアなどでは、公然と高齢化社会を謳っています。
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しかし、車椅子の母を団塊世代の息子である私が伴って旅行をしてみて思うことは、全くその意識は希薄に他ならないと思わざるを得ませんでした。
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世の中が便利になった反面、社会が荒んでいく姿がグローバル化していることを老老親子旅、そして老老夫婦旅を通して感じるうちになんとかこの体験を改善に役立てたいと考えるようになりました。
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それが母が最も希望することのように思うからです。
【HP更新しました】
http://suenaga-photo.com
この度、私こと末永輝清(68歳)は 10年振りにHPをリニューアルしました♪